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2007年2月15日

教育の本質とは-真の人間教育について

2月例会   2月15日 (木)
      19:00から21:00まで
場所    学士会館 310号室
担当    矢澤 昌敏
テーマ   「教育の本質とは - 真の人間教育について」


教育の本質とは ―
真の人間教育について

       矢澤 昌敏
情勢判断学会運営委員
新卒者の就職コンサルタントとして講演、コンサルティングで活躍中。大学、企業、双方から幅広く厚い信頼を得ている

 本日お話させていただく事は、日頃、新卒者の就職をお世話させていただきながら、教育の場の一端に触れております者が、教育の本質に対して、強く疑問を感じたままお話しますので、纏まりのない内容になっているかとは思いますが、皆様からの忌憚の無いご意見をいただければ幸いです。

 事前に、笠川貞夫様よりブログにて、教育をめぐる三つの立場として、立場の整理をして欲しいとのご意見もありましたが、大変難しい問題でもあるので、今回は私の意見として述べさせて頂きたいと思います。


1. 教育とは何か

教育は、次のように大きく分類されると思います。
・家庭教育
人間社会において、基礎的事項を子供に示すこと《躾》《道徳》

・学校教育
学校で、同世代の子供を一定期間、所定の年限の間、心身の発達に応じて行う

・社会教育
社会において行われる教育のこと、社会の様々なやりとりの中で行われる多様な教育活動を含む

岩波新書の「日本の教育を考える」で宇沢弘文氏が述べている「教育とは何か」の定義に、私も深く感銘いたします。
一人一人の子供が持っている多様な先天的・後天的資質を出来るだけ活かし、その能力を出来るだけ伸ばし、発展させ、実り多い幸福な人生を送ることが出来る一人の人間として成長することを助けるのが教育だ。
教育は決して、社会的、政治的、宗教的、階級的、イデオロギーによって支配されるべきではない。一人一人の子供が、立派な一人の大人になって、個人的に幸福な、そして実り多い人生を送ることを助けるものでなくてはならない。

 教育の目的は、子供たちを幸せにすることである。幸せになるために勉強するのであり、勉強して不幸せになるのであれば、勉強なんて辞めた方が良い。

 現在の学校教育には、嘘が多すぎる。
・選別を目的としていながら、公平・平等だと簡単に嘘をつく
・個性の尊重だと言いながら、相手に選択の余地を与えていない
・何故、教育をするのかが、はっきりしない
学ぶ喜びを教えられない教育は、無意味だ。
生きて行かなければならないので、生きるために、必要なことを身に付ける。自分がやりたいことを実現するため、つまり夢を実現するために、手助けをするのが教育である。

2.戦後、否定されたもの

日本は戦争に負けた。負けたことで、多くのことが切り捨てられた。切り捨てられたものの中に、教育の本質も含まれている。
 教育は、多くの否定の中に成り立っている。
思想の否定、自己の否定、人格の否定、個人差の否定、個人の性格の否定、肉親・血縁の否定、道徳の否定、マナーの否定、躾・育児の否定、礼節の否定、文化の否定、歴史の否定、伝統の否定、風俗習慣の否定、儀式やしきたりの否定、地域の否定、地域コミュニティの否定、教育勅語も否定された。

藤原正彦氏の「国家の品格」より
「戦後の日本は、高い経済成長を遂げたが、繁栄の代償として失ったものがあまりにも大きい。「国家の品格」が格段に失墜したからである。日本が「国家の品格」を取り戻すためには、現代を荒廃に追い込んでいる自由と平等より、日本人固有の情緒や形の方が上位にあることを、世界に示さなければならない。それには日本人それぞれが、情緒と形を身に付けること、それが「国家の品格」となる。品格が高い国に対して世界は敬意を払い、真似しようとする。それは、文明国が等しく苦悩している荒廃に対する解決策だと言えるだろう。情緒や形を復活させるのが「武士道精神」である。「武士道」は、鎌倉時代以降の日本人の行動基準、道徳基準の基本となっていた。その中には、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、他人の不幸への敏感さなどが盛り込まれている。美しい情緒や形には普遍的な価値がある。」

 究極は、教育の役割の否定であり、あきらめ放棄した時点で、その役割を喪失した。そのことに気づかなかったことが恐ろしい。

3.何故、教育は必要なのか

江戸時代では、武士は論語、人として如何にあるべきか、人として何が必要かを学んだ、人として如何に処すべきかと歴史を学んだ
 庶民は、読み書き・算盤など、生活して行く上で、身に付けて得なことを学んだ。
また 吉田松陰は、自身が好んで口にする「憂え」、優秀な人材の登用が第一であり、教育の基本が人づくりであり、それにより、国づくりが出来ると唱えた。学問は焦らず、「大器は晩成す」と10年20年先を見据えた考えで、教育を施すべきであると言った。

 教育の目的は、人間を幸せにし、夢を実現させるためにある。教育の必要性とは、民主主義の社会で、生きて行く上で必要なことを習得させることである。
 これが現代の学校教育、家庭教育の中で欠落しているものではないかと思う。

4.教育の本質は

教育の原点は育児である。教え、育てることである。しかし、現代の教育には、育てるという部分が欠落している。育てると言うことを忘れているのではないだろうか。
子育てで必要なことは「環境」である。学校だけで教えるのではなく、地域社会全体が関わってきたものである。年寄りは昔語りをし、年長の者は、幼い者の面倒を見、長じれば集団生活の中で、その土地のしきたりや伝統を生活の中で伝えてきた。野山には自然が満ち、子供は遊びの中から多くのことを学んだ。その子育ての環境が破壊されたことである。
社会も家庭も学校も分離され、孤立している。このことが教育の統一性を著しく損なっている。親は阻害され、教師は孤立し、社会は隔絶された。そのために、子供は何が正しいのか判断できずに、混乱している。
その間隙に、メディアが忍び込んでくる。今や、メディアは最大の教育媒体となっている。そのメディアは商業主義であり、言論の自由によって守られている。
メディアは子供が欲しがれば何でも与える。例え、それが麻薬的であろうと、劇薬であろうと。金にさえなれば。

育てるということは、子供たちを一個の良識ある人間として社会の中で自立して行けるようにすることである。
 人間関係を保つために最低必要な常識と礼儀、ならびに人として責任を持った生き方ができるようにするための倫理観を、身に付けさせることが、教育には要求される。
ところが、生きて行くために必要な躾、危険なものから身を守る術といった、親にとっても、子供にとっても、教えて欲しいことや教わりたいことが、現行の教育では完全に無視されている。
 仕度と始末を躾なければ教育ではない。今の子供たちは、母親の作った食事をただ黙って食べて育った世代で、親の手伝いや、家の仕事をさせられて育った世代でもない。食卓に座って、出された料理を食べて、食事が終われば後片付けもしないで学校へ駆けて行く。食事の後片付けが終わらなければ、学校へ行くなと、言われたことも無い。だから、今の若者が職場においても、他人が仕度しなければ、仕事が出来ない。何も出来ない。仕事が終わったら、後片付けもしないで帰宅する。よって仕事も然り、目の前の仕事しかこなせないのである。
 だから、家事の出来ない娘が出来るし、常識の無い息子が出来る。ただ、そういう面では引き篭るしかないのではないか。

日本の教育学の祖である貝原益軒が、教育論を纏め、子供が善人になるか悪人になるかの別れ目は、子供が赤ん坊の時にほんの少しの動作も受け止めて善に導くことが、「始めを慎む」ことの大切さを説いている。

5.結びの言葉

人生の素晴らしさ、生きる喜びと勇気、それを子供たちに伝えることができたら、それこそ 最高の教育ではないか!!