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2007年4月12日

勝者なき競争社会

日時  : 4月12日  木曜日
      18:30 ~ 20:30
場所  : 港区立商工会館
参加費 : 1000円
テーマ : 「勝者なき競争社会」
担当  : 今井 裕幸

 人材紹介コンサルタントとして、多くの方の転職相談をしている体験から、具体的な一人一人の人生に対して、教育がどのように影響を及ぼし、どのような結果となって実生活の中に影響しているかを、ざっくりとした経験のなかから捕らえてみようと思います。教育学者が述べるような、教育の理念・概念の捉え方はさておいて、実生活の側面から捉えてみたいと思います。

 昨今の格差社会を表現する方法として、「勝ち組」「負け組」という言葉が使われることもあるようだ。自由競争社会のなかで、努力した者が報われて「勝者」となることにより、競争が促進され、全体としてより良い社会になってゆくという理論です。ここで問題なのは、「勝者」が本当に人生全体を通じて「勝者」となっているのだろうかとの疑問である。その陰で、努力はしているのに、所得水準が極端に低い「ワーキングプアー」を生み出していることにも注目しなければならない。
 ヒット商品のサイクルが短く、ビジネスモデルの成功も数年で変化してゆく中において、人の人生は80年としても、大学を出てから60歳まで38年間、60歳を過ぎてからも20年ある。会社の寿命よりも人の寿命の方が明らかに長い状況になっている。(客観思考)
 企業のニーズとしては、短期間のビジネスチャンスに人・物・金を集中しようとするため、当面の仕事に即戦力として人を採用し、当面の仕事がこなせれば、その後のことは考えていないという場合がある。それに対し人は年齢が上がったり、転職回数が増えて次の仕事をみつけにくくなる。
 転職市場でも、年収がアップして転職成功例としてもてはやされた人も、長期にキャリアを追ってゆくと、必ずしも成功とはいえず、ひっそりと転職を繰返しているケースもある。はたして本当に成功例であったのか疑わしいケースのほうが多い。

 職業紹介コンサルタントとして、多くの人の履歴書をみた経験から言うと、人の人生を最も決定付けるのは、学生を終えて最初に入った会社の影響を大きく受けているということである。学生時代の専攻が理系だろうが文系だろうが芸術系であろうが、社会人として基本的な部分は、最初に入社した会社から受けることになり、そこで上司に恵まれるか、恵まれないかも含めて、最初に入社した会社の影響をなんらかの形で、その後のキャリアに影響があるとおもわれる。

 現代の教育問題における問題点である。「いじめ」の問題を分析するに対して、脳力開発の手法を使い、まず〔つかむ作業〕を行います。
〔つかむ作業〕
1.以前はどうなっていたか(歴史)
・昔からいじめはあった。昔はより大きな格差社会であった。
・村八分、部落問題など国家的システムとして差別はおこなわれていた。
・貧乏人の子供だからいじめられるのは当然、親も子供も問題としなかった。
2.現在はどうなっている(現状)
・平等が大前提となった中でのいじめ
・親も平等意識の中での教師からの対応を求める。
・陰湿化し、心に傷を負ったまま、引きこもり、ニートに繋がることがある。
3.将来はどうなるだろう(予測)
・いじめそのものを無くすことは出来ないのではないだろうか。
・格差そのものも、人間社会としての構造の中から無くなることは無いだろう。
・新たな格差社会のなかで、活き抜く力を養うことが大切だ。
以上のつかむ作業を受けて、〔計画する作業〕を行います。
〔計画する作業〕
4.今後はどちらへむかう(方向)
・いじめそのものが無くなることは無いだろうが、それをケアするシステムを作る。
5.今からどのようにする(手段)
・心に傷を受ける部分を積極的な気持ちに変えてゆく方法をひろめる。
・ひきこもりやニートに繋がらないように、まわりに相談できる環境を整える。

いじめ報道は「浅草の火事か?」
情勢判断学会では、報道される程の特殊性をもったものは、特別なもので、それ以外の部分に普遍性があり、一般的な状況は普遍性の部分にあると判断されています。
 いじめ問題の報道については、全国的に普遍的に存在しているものであるが、時期的に現在が特に増加しているわけではない。
昔から不良少年グループやスケバングループは存在しており、スカートの長いスケバンはファッション的に消滅したのかもしれないが、今日ではあまりみることが出来なくなった。交通取締りが強化された為か、暴走族も今日ではあまりみることがなくなった。60年代・70年代の様な、デモ行進や学生運動もフォークソングとともに過去の思い出となっている。
 けんかや「暴力事件」「不良同士の抗争事件」は特殊性ではなかった時代のほうが主流で、いちいち報道されていなかった。時代的な特殊性から言えば、今日は大人しく主張を直接外に発信しない傾向にある、ということができるのではないだろうか。(対比思考)

 家庭教育、学校教育、社会教育において、その目指すところは何なのだろうか。矢澤さんの発表のときにもあったが、「教育の目的は幸せになることである。」ということだが、教育で成功した人は幸せになっているのだろうか。もし、幸せでないとすれば、成功の定義に問題があるのではないだろうか。
 教育の戦略レベルでの目的が、「幸せになること」として。戦術レベルで成功を積み重ねたのであれば、戦略レベルでの人生の幸せにつながらなくてはならない。

 家庭教育、学校教育、社会教育、それぞれに戦術が異なり、教育する側の満足感と成功・不成功の評価の基準があると思われるが、教育が成功したと評価された場合であっても、人生全体においてその人の幸せにつながっているのかどうか。個別に検証してゆく必要があるのではないだろうか。
 学校教育においては、知識習得中心の教育にならざるをえないのではないだろうか。学校教育は、幅広く、知識の習得を競わせて、吸収力と理解力を選別してゆくシステムとして機能している。
学校で社会性を身につけるというのは、同世代との友人関係としての交流や、先輩・後輩の人間関係を学ばせるという機能において有効となってくる。団体生活としての作用の中から学び取るものといえる。社会性と逆行するような校則や、生活指導という名目で行われている生活面での教育は、社会性を身につける意味では逆効果に働いている部分のほうが大きいのではないだろうか。
国際競争のなかで、数学や英語の知識が諸外国との比較で見劣りするとの調査があるが、ゆとり教育の反省点として、改良のよちがあるとおもわれる。
 家庭教育においては、まさに学校教育優先の傾向が強いと思われる。より良い進学先に行かせることが優先して、家庭教育としての主体性はあとまわしにされている傾向は無いだろうか。学校教育が知識の習得を担当しているものだから、家庭教育で社会性をみにつけなければ身につけるチャンスを失ってしまう。

 職業紹介の仕事をしていて常々感じることは、こと就職問題に関して。22歳以上の高等教育は、有利に働かないばかりではなく、それが原因で就職市場における市場価値を大きく下げてしまっていることである。本人は、そのことに気づいてなく、学校教育偏重の価値観をそのまま続け、知識の取得さえすれば、より良い条件で就職が出来ると誤解してしまっているケースが多い。
 多い例が、語学留学やワーキングホリデー。帰国後の就職活動には予想外に苦労しているケースが多い。退職してから自費で、会社派遣以外のMBA取得や大学院に行くことも、学位取得後キャリアアップできるケースは、極々一部の人だけで、そこから漏れた人たちは、次の就職先を得ること自体が困難な状況にまで落ち込んでしまうことが多いように思います。現在の日本社会における就職状況では、実務経験が最優先され、語学留学やMBAの取得は、単に実務経験の空白期間とだけ評価されるからです。
 同様に、資格取得についても就職活動に有利に働くと誤解している方が多いようですが、その資格がないと出来ない仕事を除いては、ホワイトカラーの場合は、選考の過程でほとんど評価されていないばかりではなく、業務と関係の無い資格を取得している場合、志望の一貫性を疑われ、自社への志望の動機があいまいな人だと判断され、大きなマイナスポイントになることの方が多いのです。

 成功のビジネスモデルが短期化してゆくなかで、人の人生の長さを同じ技能で勝ち抜いてゆくことは困難な状況になっている。そのなかで、人生を楽しく、価値高く活きてゆくためには、精神的な満足度を高め、人生の波の中でも謙虚に生活の基盤を固めてゆく努力をしてゆくべきだ。