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2007年5月10日

カウンセリングと教育

日時  : 5月10日  木曜日
      18:30 ~ 20:30
場所  : 港区立商工会館
参加費 : 1000円
テーマ : 「カウンセリングと教育」
担当  : 田中 達也

 私の発表は、現在私が学んでおります心理カウンセリングの視点から教育を考える、ということを試みたいと思います。
 私は現在、カウンセラーを目指して心理療法の技法を学んでいます。
 心理療法は、フロイトが開発した「精神分析」という技法に端を発します。精神分析とは、患者の心の悩みを、その原因を分析することによって問題解決を図るというアプローチです。簡単に言うと「親の育て方が悪かったからあなたはこうなった」という結論を出すものです。その後、心理学が発達するにつれ、この手法に疑問を投げかける形で、ロジャースが「人間中心療法」という技法を提唱しました。これは非指示的療法とも呼ばれ、指示、アドバイスをしない、患者を受容し、傾聴することにより、患者自身が解決の糸口を見つけるように導いていく手法です。現在はこの療法が心理療法の主流となっています。
 私が学んでいる技法は、これらいくつもの技法研究の中から生まれた「家族療法」という技法です。これは、家族を個々の成員が互いに影響を与え合うひとつのシステムとして考えるもので、家族成員に生じた問題は、単一の問題に起因するものではなく、家族が互いに影響を与え合う中で、問題が悪循環を描いていくと考えることをベースにしています。ですから、ある人が心に悩みや病を持つとき、それはその人を成員とする家族や、その家族をとりまく社会のどこかにゆがみが生じていると考えます。そのため、実際のカウンセリングには本人はもちろん、ご主人、奥様、両親など家族と共に、あるいはそれぞれと個別に面接を行います。
 蛇足ですが、カウンセリングの技法も日進月歩の世界でして、現在は、「短期療法」や「ナラティヴ・セラピー」といった技法が注目され、取り入れられはじめています。詳細は割愛いたしますが、私たちも、恩師を中心に新しい技法の習得を試みているところです。
 私はその中で、実際に患者を担当し、定期的に患者のお宅に訪問し、カウンセリングを行っています。耳学問だけでは想像もできない、壮絶な現場があることを体験し、とても重大な責務を負う職業であることを身にしみて学んでいるところです。

教育…子どもの問題行動について

●引きこもり
 私が現在直面していますのは、引きこもりの問題です。と申しますのも、現在担当しています患者は心の病を発病して10年、そのうち最近5年は引きこもりをしているのです。
 引きこもりは思春期の子どもが、不登校を引き金として起こることが多いです。しかし、不登校児がすべて引きこもりとなるとは限りません。大半の子どもはその後学校に復帰します。すべての不登校を病気と結びつけることは誤りです。とはいえ、引きこもりにまで発展してしまうと、深刻な問題となります。理由は、社会復帰がかなり困難だからです。これは私の実際のカウンセリング経験から痛感しています。強迫神経症、依存症、暴力、器物破損、自殺未遂など、およそ考え得るほとんどのことを、私の患者はしています。詳しいことは守秘義務がありここに記載することはできませんが、心の病がこんなにもすさまじいものかと感じ、それを改善に導いていく技法を身につけることの大切さと難しさを同時に感じているところです。
 家族療法では、引きこもりもシステムのゆがみと考えます。本人をとりまく家族システム、そしてそれをとりまく社会システムの機能不全が、本人の病状となってあらわれるのです。この観点から考えますと、現代の青少年の心の問題は、家族のあり方、社会構造に何かしらのゆがみ、機能不全があるということになります。
 引きこもりなどの病理を生む教育の問題点として、斎藤環さんという精神科医はこう述べておられます。
「現代の教育は『去勢』を否認するシステムとなっており、これが病理を生む原因となっているのではないか」
ここで斎藤氏が使われている『去勢』とは、自分の大事なものを取り去るというような意味で、『挫折』を象徴的に表す言葉として使っておられます。つまり、人間の成長は去勢=挫折や喪失を積み重ねていくものであり、去勢されて初めて、社会のシステムに参加できるのだということなのです。現代の教育はそれを否定している=挫折を経験させず、無限の可能性を秘めているという幻想を抱かされたまま、社会に放り出されるという構造になってしまっているのです。これが教育の重大な問題であるのです。
 また、現代の学校教育は二面性を持ってしまっているように思われます。平等・多数決といった「均質化」を奨励する一方、内申書・偏差値といった「差異化」も同時に押しつけているように見えます。このようなダブルバインドが、子どもの心に少しずつ影響を与えているのはないでしょうか。

●ニートは激増しているか?
 青少年のニートの問題は、前述の引きこもりの問題と重ねて語られることが多く、このことは大変問題だと感じています。
 最近、ニートが増加しているという記事が紙面を踊らせることが多いのですが、本当にニートは増えているのでしょうか。
neat_graph.JPG
【図2-1-1】は、働いていない人、いわゆる「無業者」の内訳と10年間の推移のグラフです。一番左が無業者の総数、この中でニートと呼ばれるのは「非希望型」で、この非希望型は10年間でほんのわずかしか増加していません。激増しているのは「求職型」いわゆる失業者なのです。
 私にはニートという言葉が拡大解釈され、一人歩きし、ついでに一部の病理としての引きこもりをも巻き込んで、大きな社会問題というふうに捉えられているような気がしてなりません。ニートはそんなに増えていません、ですから彼らをひっくるめて無理矢理社会に引きずり出そうとする政策は問題があるように思います。また、そのことを、病気として苦しんでいる引きこもりの方々にまで適用しようとする風潮があるのを、大変心配しています。彼らは病気なのであって、精神論や根性論で治せるものではありません。物事を正確に捉え、適切な判断をしていただきたいと願うばかりです。
 しかし一方で、引きこもりをはじめとする、心に病を持つ子どもは増加しつつあるようです。子どもはなぜ、社会の一員として巣立てないほどに心を痛めてしまうのでしょうか。それは、現代の教育が何か問題を抱えているからではないでしょうか。カウンセリングの側面から、教育の問題点について考えてみます。

教育…教育の問題点

●コミュニケーションの量の不足
 カウンセリングは、コミュニケーションによって相手の状態を改善する技法と位置づけることができます。コミュニケーションという観点から教育を見た場合、教育の問題点は2つあると考えます。
 ひとつは、コミュニケーションの量の不足です。人は、他者と関わることにより成長し、社会生活を営みます。そのためにはコミュニケーションが大変重要です。現代の子どもは、このコミュニケーションが不足していると考えます。これは、子どもが話さなくなったというようなことではなく、子どもを取り巻く人的な関係、親、兄弟、祖父母、友だち、教師など、子どもが関わる様々な世代の人々との交わりが減ったためではないでしょうか。

●コミュニケーションの質の不適切
 もうひとつは、コミュニケーションの質の不適切さです。親や教師が子どもに関われなくなっている社会構造、さらには私たちのようなカウンセラーの登場により、本来私たちを必要としない子どもまでも、プロの話し相手に委ねてしまっているということはないでしょうか。私たちが学んでいる心理療法の技法は、子どもの成長のためにあるのではありません。しかし親や教師、果ては国家までもが「心のケア」と称して学校にスクールカウンセラーを置き、子どもが少しでも不調を訴えれば彼らに任せてしまう。このことは、果たして子どもの成長にプラスになるのでしょうか。何もかも、用意されたシステムで代用しようとしているのではないでしょうか。

 子どもの成長に欠かせないのは、親、教師、家族、ご近所が子どもときちんと向き合うこと、適切なコミュニケーション環境を整えることだと、私は考えます。