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2011年10月23日

平成23年9月例会報告

日時  : 9月14日  水曜日
      18:30 ~ 21:00
場所  : 港区立商工会館
テーマ:DVD「東西古今人間学」鑑賞会第2回

前回の鑑賞会は初回であり、これまで城野先生にお会いしていない方が殆どでしたので、できるだけ先生のお話を生で聞くほうに時間を使うほうが良いと考え、第1巻第1回を2時間強かけてお聞きしました。
先生のご講演を一人で聴くよりも関心がある人が集まって聞くほうが臨場感があると思いますが、1回分を2時間強かけて聞くと、折角ご関心ある方々が集まったのに、お互いに意見交換をする時間が殆どないのが残念であります。
情勢判断学にご関心のある方々ですので、先生のお話をベースにして、お互いに意見交換する時間を設けたほうが良いと考え、今回の鑑賞会では、第1巻第2回の前半を1時間強かけてお聞きし、後は参加者の意見交換の場といたしました。     
今回の報告としては、お聞きした第1巻第2回の要旨を私なりに整理し、意見交換の要旨を整理しました。

DVD「東西古今人間学」第1巻第2回要旨

1.今回は、織田信長を取り上げますが、なぜ戦国武将を取り上げるかというと、どのような行動をしたかの記録が残っていて、その中から事実をピックアップできるからです。
仕事とは、関係を作らないと商売が成り立たない。どのような人間関係をどのように作るのか。
「営業をしています」といっても、実際にやっていることは納品であって、営業とは言えない様なケースがある。
「買わん」という人に如何に買わせるのか。買うように人を変えさせるには、人間と人間との関係を考えていくことが大切である。
実験材料はどこにも転がっているが、お互いに理解しあうには、皆が知っている人を取り上げたほうが良い。

2.織田信長が桶狭間で実現した奇襲作戦からは、科学的計算ができることを示している。
また、長篠の合戦では、信長軍3万人に対し、

武田勝頼軍1万7千人、このような戦のことにつき、記録が残っていて事実が突き止めやすい。
そのような事実から、信長や秀吉が、天下統一の戦略を持っていたことがわかる。
天下統一のためにはたくさんの軍隊を作り、なるべく死なないような戦をする。
信長は長篠の合戦で、鉄砲を活用し、武田軍を殆ど全滅させ、後に勝頼も天目山で自決した。
信長は、3000丁という大量の鉄砲を持っていたのに対し、武田軍はせいぜい100丁程度といわれている。このような大量の鉄砲を使うようになるのは、ヨーロッパでも300年ぐらい後になる。

3.日本には鉄砲は、種子島に1丁が伝わると、その年の内に16丁作られ、10年もしないうちに日本全国へ広がった。
信長は堺を取り、鉄砲の技術を領土である関へ持ってきた。関は鉄砲作りの名所となる。
日本では新しいもの(近年ではエレクトロニクス)の普及が早い。日本には資源がないが、手を使えば良い。豊かな経済が作れる。そのためには大変な金が要る。
信長は占領地が栄えるように、どんどん商売をさせ、物資を流通させた。

4.信長は人を抜擢した。
上杉や武田は、親から譲り受けた家臣団がいたが、信長には旧来の家臣はいなかった。
上杉は名将といわれているが、柴田の子分の佐々成政を攻め倦んだ。
信長は戦略を持っているので、どんどん抜擢した。
兵力拡大は難しいが、新しいやり方を作る。

5.設楽原の合戦では、守るためにやっていたことを攻めるために使った。
  武田勢では、このような戦に鉄砲は役に立たないと考えていた。火縄銃は1回討って、次の弾を込めるのに10何秒掛かる。
  信長は、兵一人づつに縄と杭を持たせ、堀を穿ち、杭を立て、3000丁の鉄砲を3列にし、横に並べた。ヨーロッパよりも300~400年早く、機関銃の原理を取り入れた。
  その結果、信長方は殆ど死なないで、武田方は殆ど全滅という世界戦史でも傑出している成果を出した。
  運のような分からないものに頼るのはだめで、運を条件として如何に使うかが問題である。

6.信長亡き後、天下統一した秀吉も科学的計算性と戦略を持っていた。
  賤ケ岳の合戦や山崎の合戦で見せた時間差作戦、更には小牧長久手の戦いでの家康への対応に示されている。

7.小牧長久手の戦いでは、秀吉は天下統一の少し前で、兵力10万人に対し、家康は3万人。
  損害を出さずに家康を降参させるのに、家康の分析をする。
  家康は誇り高い男なので、力ずくでは問題があり、相手の体面を立てる。
  形の上では相手に勝たせて、その間に廻りを攻め、家康が後援していた織田信雄を降参させ、家康を孤立させる。
  その上で秀吉の方から仲良くしようと持ちかける。秀吉の妹、朝日姫を家康に嫁がせ、その後母親を人質として出す。
  家康としても、負けて降参することは受け入れ難いが、勝って講和ならば面目も立ち、受け入れる。
  秀吉は家康を京都に上洛させ、事前に家康に頼み、諸大名の面前で、臣下の礼を取らせたといわれている。

8.このように相手とうまくやっていこうとするならば、相手を見極め、確定的事実をつかみ、人間を研究することが大切であり、人間関係の中でどのような対応をするのか、理解を深める必要がある。

9.秀吉は融通無碍で、理屈や権威に頼らない。
  北条攻めにおいても、20万の大軍を持って、
  小田原勢7~8万を囲み、食料を断ち、1年位
  殆ど戦がない。
  北条勢は、会議ばかりやっていて何も決まらないので、小田原評定といわれた。
  秀吉は大軍を倦ませないために、町を作らせ、音曲を持って楽しませた。
  日本では城には城壁があるが、町には城壁がない。中国、中近東、インド等では町に城壁がある。大陸では民族あるいは宗教戦争であり、遊牧民にとっては家畜が財産であり、民は穀潰しであり、他の民は殺すのが当たり前である。日本では民は財産であり、殺すことはしない。日本での戦争はスポーツ大会のようなものとも言える。
  海外の武将で、漢の皇祖、劉邦は融通無碍なところがあり、韓信の協力を得るために意に沿わないことも受け入れている。
  一方、ナポレオン洒脱性がない。ロシアまで侵入したが、当時の一般的な軍隊は雇い兵であり常に上官の監視下にあったが、フランス軍はフランス革命後の国民軍であり、士気が高かったことによりロシアまで侵入できたが、ナポレオン自身の融通性と頭の切れの無さにより敗退したといえる。
  秀吉の場合、天下統一のために家康を見方にしたが、死に際して、秀頼を天下人にするように5奉行に誓約書を書かせたことが、結果として秀頼を死なせたともいえる。
  この点では、劉備が劉禅が皇帝の器で無いとし、孔明に後事を託すが、かえって孔明は劉禅を立て、劉備の恩に報いた。

10.眉間にしわを寄せて、人と付き合わず、いやな思いをしながら、惨めな人生を生きるのもよし。
  誰とも仲良く、仕事も家庭環境も協力してニコニコしながら生きるのもよし。
  どちらを選ぶか決めるのはあなたです。


<鑑賞後の懇談会要旨>

1. 城野先生のお話は、本題の間に差し込まれる聴講生とのやり取りにも、時々ドキッとさせられる。今回の中でも、お前のやっている営業は配給ではないかといわれると、改めて自分のやっていることを認識させられる。

2. これまで城野先生のお考えを御著書で勉強し、活用させていただいてきましたが、これまでの日本には無い考え方であり、どのようにしてこのような考え方が出来て来たのだろうか。
(城野先生の歴史的背景を理解するには、現在発刊されている著書として、「祖国復興に戦った男たち」、「獄中の人間学」があります)

                  以上