« 2011年10月 | メイン | 2011年12月 »

2011年11月19日

平成23年10月例会報告

日時  : 10月12日  水曜日
      18:30 ~ 21:00
場所  : 港区立商工会館
テーマ:DVD「東西古今人間学」鑑賞会第3回

今回の鑑賞会も前回同様に、まずは第2巻第3回の前半を1時間強かけてお聞きし、先生のお話をベースにして、お互いに情勢判断学にご関心のある方々ですので、意見交換する時間を設けたほうが良いと考え、後は参加者の意見交換の場といたしました。     
今回の報告としては、お聞きした第2巻第3回の要旨を私なりに整理し、意見交換の要旨を整理しました。

DVD「東西古今人間学」第2巻第3回要旨

1.これまで、織田信長を取り上げ、桶狭間の合戦、長篠の合戦をみてきましたが、決心と戦略目標は必要であり、更にやり遂げるための戦術面で詳しい計算が出来なければ駄目。1年目、2年目と計算をしていく。又その計画を実現していく行動を取る。

2.織田信長が桶狭間で実現した奇襲作戦からは、科学的計算ができることを示している。信長軍3千人で、2万9千人を相手にして、相手をやっつけてこっちは損害が無い、このような戦は他の武将ではやりきれない。

3.武田信玄、上杉謙信は、世に名将といわれているがどうだろうか。
  川中島合戦現地学習ツアーを東京情勢判断学会が開催し、現地の見学を実施した。
  武田信玄がキツツキ作戦を実施したという海津城は小さな城で保塁のようなもので、2万人なんてとても入らない。
  上杉謙信が12千人を引き連れて立てこもったという妻女山は、1千人そこそこしか入れない。海津城のすぐ目の前、4km位のところで、山の麓に陣を張っていた。そこで睨み合っていたと言う事であろう。
  持久戦と対峙状態とは違う。
  確定的事実を掴まむことが肝要です。人の伝えた話をそのまま信用してそうなんだろうというのは間違いで、新聞や、あの人が言ったということは、そのまま信ぜずに自ら確認することが大切です。
  この武田と上杉の合戦で、7千人が死んでいる。このような消耗戦をやっていたのでは、拡大発展は出来ないし、天下国家を狙うことは出来ない。

4.信長の科学的計算性。
  人間を育て、兵力を増強できた。
上杉や武田は、親から譲り受けた家臣団がいたが、信長には旧来の家臣はいなかった。
拡大発展の戦略により、才能のある人を抜擢し、縦横に腕を振らせた。

5.信長、秀吉は発展の戦略を持っていた。
  占領地の民度を上げ、活用する。組織動員の仕組みを作る。商業を活発にし、生産を活発にする。
  現状維持をすればよいという者と、発展の戦略を持つ者との違い。
  上杉は騎馬隊を率い各地に攻め込んでいるが、占領地帯の確保活動が出来ていない。
  上杉、武田共に強い相手とまともに戦っていない。それが江戸時代に講談で名将として取り上げられた。
  事跡で見てみると、とても名将とはいえない。

6.秀吉は最下層からでてきたので、人情の機微を心得ており、その言動に人柄が出る。
  京都のお寺でのマツタケ狩りに招かれて、飛び廻って喜ぶことによって、相手の好意に素直に応える。
  宇喜多秀家の家来、侍大将、花房助兵衛の秀吉批判への対応、打ち首から切腹、更には加増への変更、こだわらない人柄がでている。  

7.秀吉の作戦面での科学的計算性として、賤ケ岳や山崎の合戦で見られる時間差攻撃が挙げられる。消耗戦をやらず、兵力を温存する。
  こちらが損害なしで、相手を囲んでやっつける。小田原城では大軍で囲んで、内部分裂を誘う。高松城では水攻め。鳥取城では飢え殺しといわれ、事前の対策として米価を吊り上げ備蓄米を買い集めた。三木城も1年以上囲み別所長治を自害させた。
  賤ケ岳の合戦では、柴田勝家が越前から3万の軍勢を率いて侵攻し、家臣の佐久間盛政が内1万5千を率いて、大岩山砦の中川清秀を打ち破り、占拠する。
  これを聞いた秀吉は、大垣から50kmを5時間で走破し、その日のうちに全軍を展開し、佐久間を破り、柴田勝家は北ノ庄へ撤退した。
  山崎の合戦についても、明智は秀吉との合戦は10日位先だろうと考えていたのが、秀吉の方が先に着き、高山、細川、中川等を組み込んだ。毛利との講和についても、主導性を失わずに迅速に締結した。
  秀吉は時間の貴重さを知り、活用したといえる。時間は命に直接関わり、時間を守る人は約束を守る。

8.次に日本から中国大陸に渡り、三国志の人間学を赤壁の戦いを題材にして見てみよう。
  漢の末期に農民暴動、黄巾の乱がおこり、これを鎮圧するために募った義勇軍が地方のボスとなり、群雄割拠の状態となり、この中で、魏の曹操が頭角を現す。漢の末裔を任ずる劉備玄徳は、三顧の礼をもって諸葛孔明を迎えるが、荊州の劉表のもとに身を寄せる。
  魏の曹操が南下し、荊州を下し、更に南進を目指す。
  揚子江の南は、呉の孫権が統治しているが、その軍勢15万人程度で、曹操の軍勢100万人を迎えて、戦うのか、降参するのか、国論が2分していた。
  呉の軍使、魯粛の意を受け、劉備は孔明を呉に派遣する。
  孔明は、孫権に降参するのか、戦うのか、その決心を迫った。また、軍の司令官、周瑜に対しては、説くよりも激すべしで、曹操が江南に求めているのは、大喬(孫策の妻)、小喬(周瑜の妻)の姉妹だと、銅雀台の賦を引用して周瑜を怒らせる。
  ここに2国同盟が成立し、諸葛孔明が目指す3国鼎立、天下3分の計が進展する。
  このように戦略は大胆に決め、戦術は細心に取り進めることが大切です。


<鑑賞後の懇談会要旨>

1.今回のお話の中で、非常にインパクトがあったのは、時間の大切さであった。
常識的に考えると不可能と思われることでも、時間の活用方法によっては可能になるということですね。

2.組織発展のために、人物観察と人材の抜擢が出来ているかどうか、現実の身の回りの組織でどのようになっているかを見てみると納得できる。
3.現実の組織観察通じても、組織として人材抜擢をしていくうえには、組織としての戦略目標があるのかどうかが問題であり、現状維持で良しとしている場合には当然現状を変革することは出来ない。
  これまでその事業を支えてきた番頭を代が変わったからといって切れるかどうか。
  事業推進する上で、どのような戦略を掲げ、人材育成や人材抜擢を推進するのか、環境の変化や時代の流れをどのように受け止めるのか課題も多いといえる。
  (論議の中では、個別企業の具体的な事例が話題になりましたが、今回の報告では詳細は省略します。)

4.情報を確認するために、現場を見ることは非常に重要な要素であるが、同じように現場を見ても、見る人の経験や立場あるいは感性によって、同じ受け留めが出来るとは限らない。
例えば、川中島合戦現地学習ツアーに参加したが、小生には実戦経験が無いので、自分で見ている限りでは実感が無い。城野先生からいわれて、なるほど戦とはそういうものなんだと受け留められる。
また、ケースによっては情報確認に統計データが活用されるが、統計データを作成する人の意図により結論が正反対になることもある。
   (本件についても具体的な事例で論議がされましたが、今回の報告では詳細は省略します。)
               
  以上