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2012年6月22日

平成24年5月例会の報告

日時  : 5月9日  水曜日
      18:30 ~ 21:00
場所  : 港区立商工会館
参加費 : 1000円
テーマ :原発事故から学ぶ“正しい戦略”(3)
担当  :古川 元晴(弁護士、元検事・内閣法制局参事官)

 本テーマの第3回目(最終回)である5月例会は次のとおりでした。
〔論点第2 原発事故について〕
第1 原発事故の実態及び原因について
現在までに公表されている資料、情報等により簡潔に要点を整理すると以下のとおりである。
1発生した事故の特異重大性
 一巨大な被害発生
 (1)|福島第一原子力発電所の3・11事故は、原発が一旦過酷事故を惹起した場合に、如何に破滅的で制御不能の放射能汚染の甚大な被害をもたらし続けるものであるかの実態を明らかにした。原発は「本質安全」ではなく「制御安全」装置であって、稼働中でも停止中でも常に3つの制御機能(①停める、②冷やす、③閉じ込める)によって安全が維持されているものであるが、今次事故では、地震・津波による同発電所の全電源喪失等により1~3号機の上記②③の制御機能が失われたことによってもたらされた。4号機建屋内のプール内で冷却保管されていた多量の核燃料についても同様の危険が生じたが、幸運にも全くの偶然の諸事情により辛うじて回避できたということであり、回避できなかかった場合には原子炉外の剥き出しの核燃料が溶融して高濃度の放射能物質を放出し続ける状態となって、同発電所内から完全撤退せざるを得なくなるどころか、避難対象区域が首都圏にまで及び、その場合には今次災害をはるかに上回る計り知れない災害がもたらされたであろうと言われている。今次事故の実態は、このような全くの幸運により回避された災害をも含めて理解する必要があろう。
2 事故の発生原因及び被害拡大原因
一直接の発生原因・・「想定外」の津波による全電源喪失
   ア津波について
     東電の想定 5.7m
  実際の津波 14~5m
イ電源喪失について
津波・地震による内部電源、外部電源、非常用電源等全電源の喪失
二被害拡大要因・・「想定外」の過酷事故の発生による次の問題事象
    ①1号機及び3号機の非常用冷却装置の誤操作 
   ②ベントの遅れとフィルターなし 
 ③SPEEDI活用できず
 ④杜撰な緊急避難計画
   ⑤オフサイトセンターの機能不全
3「想定外」の発生経緯等と「安全神話」
一津波について
  (1)|想定は可能だった
   ア東電の津波の想定数値は、東電の依頼により社団法人土木学会が算出したものである。津波計算手法としては
    ①既知の波源(断層)を基に津波の高さを計算
②発生を否定できない波源を基に津波の高さを計算(別の場所で発生したものを当て嵌める手法)
の二つの手法があり、土木学会は福島第1原発について、02年3月上記①の手法により5・7mと算定した。
イその後、地震調査研究推進本部が「三陸沖から房総沖の海溝寄りはどこでも津波が起きる」と指摘したことから、東電内部で、上記②の手法により、06年に10m超、08年に最高15・7mの数値を算定していた。また、貞観(869年)の津波の研究者からも東電の想定数値を上回る数値が示されてもいた。
  (2)「想定外」となった理由
ア国も東電も、想定の範囲を科学的に確実に予測できる範囲に限定していたので、土木学会の想定数値を超える上記の数値を「仮定の計算」等として切り捨てることとした。
二全電源喪失について
(1)想定は可能だった
ア79年に米国のスリーマイル島原発において過酷事故が発生し、その原因が操作ミスによる全電源喪失ということで、国は日本の原発についても全電源喪失への対応を検討した。
  (2)「想定外」となった理由
  ア原子力安全委員会(「安全委」)は90年の安全設計審査指針で「全電源喪失は、短時間での復旧が期待できるので考慮する必要がない」と決め、また、93年の作業部会で検討したが、同指針は維持された。これは通常の外部電源の喪失による停電実績だけを基に検討したことによるもので、地震等の外部事象による電源喪失は起き得ないものとして考慮を要せず対策不要とされた。なお、この点につき斑目委員長は、事故後、「明らかな間違い」と謝罪している。
三過酷事故について
(1)想定は可能だった
ア86年に旧ソ連のチェリノブイリ原発において操作ミスにより過酷事故が発生し、安全委は92年、過酷事故対策の導入を検討したが、結局導入を見送った。
 (2)「想定外」となった理由
電力会社は「住民への安全宣伝と矛盾する」として過酷事故対策の導入に反対し、安全委も「訴訟対策上、国が安全に疑問を呈することはできない」旨判断し、過酷事故は起き得ないとして国の規制を見送り、電力会社に丸投げすることとした。
四防災対策区域拡大
  (1)想定は可能だった。
安全委は、06年にIAEAの国際基準見直しに合わせて防災指針を8~10kmから30km圏内に改訂しようと作業部会で検討したが、見送られた。
  (2)想定外となった理由
   安全委は拡大を図ろうとしたが原子力安全・保安院(「保安院」)が「原子力の安全に対する国民の不安を増大させる」と反対したため見送ることとした。

第2 原発事故から学ぶ”正しい戦略”について
1 ”原発事故から学ぶ”とは何か
一原発の安全は、科学技術面とこれを活用する人間組織面の両面によって維持されているので、事故が起きた場合にはその両面から原因を解明し学ぶ必要がある。そして、人間組織面については、人間組織が戦略によって動いているところから、その安全戦略の観点から実態を検証し学ぶことが肝要である。正しい戦略がないと、科学技術はあっても有効に活用できなくなる。
 二安全に関しては「安全文化」という観点から論じられる場合があるが、安全は単なる「文化」や倫理、道徳の問題ではなく、社会的責務として当然に遵守されるべき「法規範」の問題であるということ、及び安全は人間(組織)行動の問題であるので戦略・戦術の観点から体系的に検討することが有効であると考える。ただし、法規範は社会的合意によって生み出されるものであるから、社会に安全文化が根付いていなければ正しい法規範も定立できないことは当然であり、その意味での安全文化の重要性を認識すべきは当然である。
2 原発の安全戦略
 一安全戦略の実態と「安全神話」
  原発は国家戦略として推進されたものであり、前記第1で記述した事故原因から浮かび上がる原発の安全戦略は「推進>安全」であって、原発推進が「安全」に優先し、安全は「推進」の枠内にとどめられていたことが認められる。すなわち、
  (1)安全は地震学の予知能力により確実に想定できる範囲の危険(「想定内危険」)に対処すれば足りることとされていた(斑目発言「最大限、最悪の場合を考えたらきりがない。ものを作るということは、どこかで割り切らなければならない。」「科学的に根拠が明確でない、そんなことまで考えていたらものは作れない。そういうときに15メートル、20メートルもある津波を考えたらものは作れない」)
  (2)そのため、確実に想定できるとまでは言い難い危険(「想定外危険」)についての専門家等の指摘については、「仮定の計算」「実態がはっきりしない」「リスクが低い」「確率が低い」等として切り捨てることとなり、現実に危険が具体化するまでは、危険の兆候等から積極的に学ぶ姿勢を欠くこととなった(学べば推進できなくなる)。
 (3)同時に原発は、導入以来一貫して「絶対安全」を標榜して推進されてきた。原発は、唯一の被爆国として核の脅威に鋭敏な国民感情がある中で、原爆反対運動に対置し得る「夢のエネルギー源」として政治主導で導入されたものであり、「絶対安全」を標榜しない限り国民間に深刻な安全論議が起きて原発推進に重大な支障が生じることが懸念されたことは当然であろう。その後、79年のスリーマイル島原発事故を経て86年にチェルノブイリ原発の過酷事故が発生し、原発の孕む巨大な危険性が現実化し、欧米諸国の原発推進政策に甚大な影響を及ぼした。しかし日本では、時の中曽根内閣が「ソ連とは原子炉の型が異なり、日本の原発は安全性が確保されていて心配ない」「再点検は考えていない」と断言し、86・7実施の衆参同時選挙では、社会党等に対し「原発を認めない政党に政権担当能力はない」等と積極的に論戦を挑んで圧勝(投票率71%、衆院304議席・参院72議席)している。
   しかし原発に絶対的安全はない上に、「想定外危険」を直視すればするほど原発の孕む巨大な危険が認識されてくる。そのため、「想定外危険」については、これを直視せずに切り捨てて安全とみなす安全神話を創出せざるを得なくなったと認められる。
 (4)その結果として、前述のとおり想定が可能だった津波被害、全電源喪失、過酷事故等を「想定外」としてしまって、今次事故の予防上も、発生した事故への緊急対応上も、技術大国日本を誇りながら、その優れた技術を有効に活用することができずに今次事故を招いた。事故回避を可能ならしめる科学技術力はあったが、これを十全に活かす正しい「安全>推進」戦略がなかったと言える。
二上記戦略を可能ならしめた要因・・国策と「法の空白」
  (1)原発は国が国策として強力に推進し、東電も国策会社として国により全面的に擁護されていて、圧倒的な国の「力(規制権限)」と東電の「経済的利益」との合作として推進された。それは国、電力会社、関係メーカーを含む産業界、学界、関係自治体、労働組合等による壮大な利権構造(原子力村)を生みだし、その圧倒的な権力と経済力によって安全神話教育も徹底されて、陰の部分を直視して危険を訴える少数の専門家等を異端視し、排除して推進された。
  (2)また、「相対的安全」法理による「想定外危険=免責」の範囲が、地震学の未成熟(予見能力の著しい低さ)によって著しく拡大されて社会的要請と大きく乖離していたのに、国はその乖離を是正するための法令等の整備を怠り放置した。それは、安全に関する「法の空白」を生みだし、司法によるチェック機能も著しく弱めてしまい、強大な権限を行使しながらそれに見合う責任を免れ得る無責任体制下での推進を許すこととなったと言えよう。
3「正しい(正義に適っている)=正義の4要件」の観点からの安全戦略の検証と創造
一「真実性」
(1)安全神話の上には虚構の安全しか築けないことは自明の理である。今次事故は、原発が「夢のエネルギー源」という光の面があると同時に、その陰の面において制御不能の破滅的な災害をもたらす極めて危険なものであることを明らかにするとともに、地震大国日本においてはどこで如何なる規模の地震が起きてもおかしくない状況にあるのに、地震学の科学的予知能力が極めて未成熟で確実に危険を想定できる範囲は極く限られており、その想定外において今後とも同様あるいはそれ以上の過酷事故を惹起する危険を孕むものであることを、現実に甚大な犠牲をもたらすことによって実証した。
原発という他に類例のない巨大な危険を孕む装置が、その安全を、地震大国日本において、地震学の科学として極めて未成熟な予知能力に全面的に依拠した状態の下で推進されてきたという事実は、今や何人も否定できないはずである。これまで国や東電の枢要部署において原発推進に係わった多くの政治家、官僚、会社幹部、地震学者達には、このような地震学の限界をどのように認識し、その「想定外」を切り捨てる政策形成にどのように関与したのかを検証し、教訓を明らかにする社会的責務があろう。
  (2)国策として意図的に作出された原発の安全神話は完全に自滅、破綻し、推進主体たる国も東電も発生した巨大事故に対し泥縄的な対処しかできず、被害を拡大させるという醜態(原発システムの統治能力の欠如)をさらした。
今後の原発政策は、これまでの国及び電力会社による安全神話の形成過程等を根本的に検証、反省し、原発の真の危険性(地震学の予知能力を超えた巨大な危険の存在)を直視し得る確実な安全体制を築くところから再出発する以外に選択の道はないであろう。
二「普遍性」
(その1 法規範との整合性)
  (1)今次事故で、原発に対する国の規制が安全神話の上に構築されたもので、その内容面、執行面いずれにおいても、「想定内危険」の範囲に限定されて、「想定外危険」に全く対応できない状況にあることが明になった。
(2)国の安全に関する一般的な法規範が原発の安全にどのように及ぶかを見ると、
ア事前規制
   ①行政訴訟による原発設置許可無効確認・取消訴訟
②民事訴訟による原発運転差止め訴訟
イ事後の責任追及
①民事の損害賠償
  ②刑事の過失犯
③株主代表訴訟
等があるが、民事の電力会社に対する損害賠償が原子力損害賠償法により無過失責任とされているのを除き、いずれも法理上、事故発生の「具体的予見可能性」が必要とされ、その具体的予見による「想定」の限度でしか適用できないという限界があるため、原発の「想定外危険」には適用し難い状況にある。刑事の過失犯については、早くからその限界を的確に洞察した藤木英雄教授が具体的予見可能性ではなく危惧感程度で足りるとする「危惧感」説を提唱したが未だに異端の説に止まっている。また、志賀原発2号機の運転差止め訴訟で金沢地裁(井戸裁判長)が、具体的危険性についての立証責任を原告の住民側から被告の電力会社側に転換する「立証責任の転換」法理によって住民勝訴判決を言い渡しが、高裁で覆されて終わっている。
(3)今後とも原発を稼働させるのであれば、その安全に関する法規制は、「想定外危険」を直視した、従来の安全規制の全面的な見直しと原点からの再構築が必要で、この点は最終的には「国民の合意」に依るべきこととなるので、その観点から次に検討する。
(その2 国民の合意形成)
(1)国及び電力会社は、これまで国民に対し、安全神話や真の情報の隠蔽(「寝た子は起こすな」)、利権による懐柔等をもって対応してきたもので、真の合意形成はなされていなかった。そのことは、「想定外危険」を直視しようとする人々との間に不毛な対立構造を築くことにもなった。
(2)今後の原発の推進と安全の在り方についての合意形成上の論点
ア戦略的には「安全>推進」で在るべきことは当然であるが、その「安全」の水準をどう設定するかによって、原発推進の在り方も変わってくる。原発の真の危険を直視すれば、現在の科学技術力をもってしては、確率の問題はあるとしても今次と同様又はそれ以上の過酷事故が今後も起き得ることは否定できない。そこから、世論は現在のところ大別して
A脱原発・・過酷事故の発生は絶対に容認できないとの立場
B減原発・・原発を全面的に廃止することは現実的でないが、原発の危険を減少させるために現在より原発の数を減じて推進するとの立場
C原発維持・拡大・・日本の経済発展のためには現在あるいはそれ以上の原発が必要であるとする立場
に分かれるようである。B、Cは、原発の過酷事故の発生を基本的にやむを得ないものとして容認するものである。
   そこで、基本的な論点の第1は、上記Aのように、今後日本は今次事故のような過酷事故を二度と再び起こしてはならないという立場をとるのか、又はB、Cのように、それなりに万全の安全対策をとって推進する限り、同様の過酷事故が起きることは基本的に容認する立場をとるのかの選択である。今次事故が、前述のとおり4号機の偶然の幸運に助けられずに現実化していたとすれば、世論は、一部の極端な原発信奉論者や既得権益固執論者を除けば大きく脱原発となっていたように推察される。今次事故の影響は海外にも及び、例えば日本同様の技術立国ドイツ政権が、直前までは脱原発を転換させようとしていたのを、即座に脱原発を維持する立場を明確に打ち出し、イタリアにおいても国民投票によって従来の脱原発の立場を維持することが明確に打ち出されている。この選択は国家の最重要な戦略上の判断であり、個々人の自分だけの狭隘な利害打算の立場からではなく、日本の国益、進歩発展の観点から正しく判断されねばならないであろう。
イ安全の水準について・・次に、上記B、Cのように基本的に過酷事故発生を容認する立場を選択する場合に、その「安全」水準をどう設定すべきかが重要な論点となる。Aについても猶予期間を設けて順次廃止する場合には全廃まで同様である。そこで、この点を検討すると、まず
    a従来どおり地震学による具体的予見可能性の限度で危険を想定して事故前の回避措置を講じることとし、あとは想定外の事故が起きた場合の事故時の緊急対応策に万全を期すことで足りるとする立場
b上記の事故前の回避措置につき、具体的予見可能性の限度での危険の想定だけでは不十分で、その「想定外危険」をも想定に入れて万全の回避措置を講じることとする
の選択があり得る。aは、今次事故において事故原因とされた津波等の自然現象についての「想定外」の弁解を、今後とも基本的に容認する考えであって、極端な原発信奉論者等を除けば、国民世論の支持は到底得られないであろう。また、上記bについても、その「想定外」の危険をも想定に入れて万全の事前の回避措置をとるべきこととする場合には、前記斑目発言(「科学的に根拠が明確でない、そんなことまで考えていたらものは作れない。」等)にもあるとおり、原発を稼働できなくならないかの問題が生じる。例えば、現在の安全委の耐震設計指針では、直下に活断層がある場合には原子炉自体が破壊されてしまう危険があるところから原発の設置自体を禁止しているが、地震大国日本においてはどこにでも活断層はあり得るとされている。現に東北電力東通原発、敦賀原発、大飯原発等で、今次事故後の見直しでその具体的危険が指摘され始めている。同様のことは原発に対するテロ攻撃、航空機墜落事故等でも生じ得るのであって、事故予防に万全を期そうとしてあらゆる危険を想定すべしとすると、原発は稼働できなくなってしまう。つまり、原発推進と安全は両立しないことになる。そこで、安全を優先させて脱原発とするか、推進をそれなりに優先させることとして安全の水準を下げるかの選択の問題が生じる。
 そこで安全の水準を下げるとした場合にどのような下げ方が考えられるかであるが、
    c 科学的な「具体的予見」の範囲を、従来のように確実なものに限定せず、少数説であってやや科学的根拠が曖昧でも科学的に明確に否定できない限り「想定」に含めて安全を期すこととする
が考えられる。これは、前述の金沢地裁判決が採用した「立証責任の転換」法理を準用する考えで、藤木教授の危惧感説にもなじむものである。これによれば今次事故における津波の仮定の計算も確実に想定に含めることが出来ることになるなど、原発事故発生の確率をある程度減じることができることとなる。原発を稼働させる以上、最低限度でも安全水準をcにまで高める改善は不可避であろう。
ウ以上のとおり、安全水準を高める等により原発の推進を従来より減じるとしても、依然として過酷事故の発生は想定せざるを得ず、それを受容する決心覚悟が求められる状況にある。そこで、改めて、何故そこまで危険を冒して原発推進に固執する必要性、正当性があるのかが当然に問題となる。
   ⅰ原発が「夢のエネルギー源」とされる根拠である「安い」「クリーン」の真の実態は、事故後の情報公開等で、原発絶対安全を前提に成り立ち得るものであって、一旦事故が発生すれば崩壊してしまうものである疑いが濃厚となってきている。また、原発「不可欠」も、原発に過度に依存して他の代替エネルギー源の開発や多様なエネルギーの戦略的な調達を長年軽視した結果生み出されたものであって、将来的にも固執することは国策を誤ることになろう。
   ⅱ従来の利権構造に組み込まれた人々が、依然としてその利権維持の立場に固執して推進を唱えることは、その生活維持上等からやむを得ない場合もあるが、国策として原発を推進する立場にある国は、普遍的な立場に立って全国民の生活を等しく保証すべき憲法上の責務を負っている。「国民の生活を守る」は当然であるが、原発の光の面によっ実現される「国民生活の利便性」等と、陰の面によって決定的に失われる「国民のいのち、生活、国土」等との両面を総合的に冷静に比較考慮し、その優先関係を正当に判断しなければならないであろう。国民も主権者として、各自の狭い損得中心の立場だけに固執するのではなく、国の命運を決する重要事項として、極力普遍的な立場に立って必要性、正当性を判断することが求められているといえよう。
(その3 総括)
   普遍性の観点からの主な論点は以上のとおりであり、これら論点を踏まえて今後の原発に関する国家戦略の在り方を進歩発展の観点から次に検討する。
三 「進歩発展性」・・安全戦略の検証と創出
(1)国のエネルギー戦略は、国の命運を決する根幹的な戦略である。時代の進歩発展を長期的に的確に洞察して策定されるべき事柄であり、今次事故後の原発の位置付けについては、現在、経産省の総合資源エネルギー調査会基本問題委員会等において検討されているが、その検討の要点は、今後の原発の安全の在り方と、あらゆるエネルギー源の将来的可能性についてであろう。
  (2)安全については、これまで原発は、国の経済成長を支える基幹エネルギ-源として産業界に君臨し、推進されてきたが、その実態が安全神話に支えられた「推進>安全」戦略によるものであることが、今次事故により明らかになった。そして、今後は名実ともに「安全>推進」戦略に転換すべきことが社会的に要請されてることも明らかになった。「安全>推進」とは、原発が安全の枠内でしか設置、稼働できないということであり、その安全の水準を絶対的安全に設定すれば脱原発に、また、相対的安全でよいとしても、あらゆる可能性を想定すべきこととすれば同様に脱原発となる。具体的可能性を確実なものに限定せず、疑科学的に否定し難いものにまで範囲を拡大する場合でも、地震学の予知能力の向上等によりしばしば停止すべきこととなり得るのであって、1機の発電量が100万Kwh台の原発が継続的、安定的に稼働できないこととなる場合には基幹エネルギー源としての効用が大きく失われることとなる。
(3)また、原発に変わる新エネルギー源としては、自然エネルギー(太陽光、地熱、風力、潮力等)やシェールガス、メタンハイドレード、バイオマス等多種多様なものの将来的な可能性への挑戦が世界的に展開されていて、日本はこれまで過度に原発に依存する政策をとっていたために、技術立国、技術大国を誇りながら世界の先端から大きく立ち後れた状況にあると言われている。今次事故により原発推進の根拠である「不可欠」「安い」「クリーン」の正当性が大きく揺らぐに至っており、原発が君臨できる時代が去ったことは明らかであろう。
(4)以上からすれば、日本の進歩発展の観点から長期的に原発の在り方を考えれば、まずは「安全>推進」による「脱原発」を国家の基本戦略として明確にし、その上で即廃炉とするか総合エネルギー政策の進展の実情等を踏まえて順次廃炉に至る道を選ぶのかの戦術的選択が残された課題となるように思われれる。
   原発推進による経済的繁栄は、原子力基本法第1条にも明記されているとおり、「人類社会の福祉と国民生活の向上」に寄与することを目的とするものであって、原発の陰の面の危険によって逆に「人類社会の福祉と国民生活の向上」が犠牲となるとすれば、少なくともその限りにおいて原発推進は正当性を失うこととなり、その犠牲が大きければ大きいほど国民間の対立は深まることとなる。経済的繁栄は、他の犠牲の上にではなく共に享受できる構造の上に築くことが、国民間の不毛な対立構造の根源を絶って建設的な協働関係を確立する要諦であろう。
四実現性・・戦術の検証と創出
(1)今次事故で明らかとなった原発の「安全神話」、「想定外」、「法の空白」、「無責任体制」等の事象は、いずれも「推進>安全」戦略に従った戦術として意識的に作られたものと理解すべきであり、実際にもそのとおりであったと言えよう。これら事象をその戦略面を抜きに表面的に見るだけでは、単に悲憤慷慨し、慨嘆するだけで物事の真相は理解できないし、根本的な対応策も見出せない。
(2)今後は「安全>推進」の正しい安全戦略に転換することを明確にした上で、脱原発としつつも即廃炉ではなく順次廃炉による場合には、その安全戦略が一貫して堅持されて戦術面に貫徹されるように安全システムを構築する必要がある。推進の暴走を防止するブレーキの役割を担うべき安全は、具体的に事故が顕在化した場合にはその必要性、重要性が共通認識となり痛感されるが、平素は目立たない地味な作業であり、不断の決心覚悟とそれを確実に保証するシステムがないと堅持し難いものである。具体的には主として次の点が肝要である。
アまず最重要なことは、安全戦略の核心をなす原発の安全水準の具体的内容を、原子力基本法等の原発関係法律上に明記してそれが一貫して維持されるようにすることが肝要である。今後の原発の安全水準の決定は国民的合意を経て行うべきであり、そのためには国会の議決を要する法律制定の手続によることが相当だからである。従来、安全の具体的内容は行政に丸投げされていたために空洞化、形骸化が生じたという教訓から学ぶ必要がある。この点を抜きにした安全論や組織改革論は「仏作って魂入れず」であろう。
イまた、安全戦略を空洞化させないためには、稼働中の原発を安全上随時停め得るように、その場合に備えた電力供給、節電等の対応策を平素から準備しておくことが不可欠である。従来はこの対応策を欠いていたために、安全に問題がある原発が発見された場合でも、その原発を停めた場合の影響の大きさに逡巡し、結局稼働中の原発を一度も停めることができなかったわけで、その教訓から学ぶ必要がある。現政権は大飯原発の再稼働を、正に電力不足を理由に安全面に優先させて進めているが、かかる発想こそが今次事故を惹起させた従来の発想そのもであり、今次事故から学ぶ姿勢は窺えず、「原発システムの統治能力の欠如」が厳しく問われることとなろう。
ウさらに、安全戦略を担う各種組織、部局、担当者等の間の責任体制を明確にし得る総合的組織設計が不可欠である。今次事故に関しては、未だに国(政治、行政)も東電も、組織としても個人としても責任を認めず、事故当時の原発推進を担った組織、人々がそのまま温存されて、従来どおり推進の役割を担い続けているが、これは安全に関する戦略の転換が全くなされていないことを意味することになるであろう。権限行使に伴う責任を担う自覚がない人、組織には真の反省も教訓から学ぶ姿勢も期待できないことは自明の理である。

〔総括・・”原発問題の正義に適った解決”〕
この度の検討においては、先ず「戦略・戦術」と「正義の4要件」及び「安全」の意義を確認した上で、今次原発事故につき、その事故原因を検証して、戦略・戦術の観点から、それが国策としての「推進>安全」の国家戦略によってもたらされたものであることを検証し、次に「正義の4要件」の観点から、その安全面の戦略が正義に適っていないことを検証するとともに、原発に関する国家の新しい理念に基づく正義に適った戦略を創出することを、試みた。それによって、戦略・戦術論及び正義4要件論が、当初の予想どおり、物事の見方、考え方に関し、思考力を全開させて体系的に深めることを強いる厳しい作業であることを実感することができ、当初の目的を達成することができた。今後、原発以外の諸々の政治、経済、社会等の具体的問題に適用することを通じて、社会に貢献できれば幸いである。
最後に、総括として、この検討の最終的な目的である”原発問題の正義に適った解決”の最も核心的な安全に関する要点を確認しておこう。
(1)真の危険を覆い隠す「安全神話」の上に築かれた安全戦略は虚構であり、必ず崩壊する。安全神話からの脱却が
全ての出発点である。
 (2)推進を安全より優先させる「推進>安全」戦略は、推進の暴走を停めるブレーキとしての「安全」機能を欠いており、社会的に誤った戦略であって、必ず自壊して事故に至る。「安全>推進」の正しい戦略を構築する必要がある。
 (3)「安全」は、単なる「文化」や倫理、道徳の問題ではなく、社会的責務として実現されるべき事柄であって、社会の要請に適った「法規範」によって確実に担保されなければならない。法規範が社会的要請から大きく乖離して著しい「法の空白」が生じる現状は、新しい法規範の定立により解消される必要がある。