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2014年5月16日

平成26年4月例会の報告

日時  : 4月9日 水曜日 18;30 ~ 20;30
テーマ :「なぜ誰も責任を問われないのか?
       -3・11原発過酷事故について-」

場所  : 港区立商工会館
担当  : 古川 元晴(弁護士、元検事)

(はじめに)
3・11原発過酷事故は、発生後既に3年が経過しましたが、現在に至るもなお終息の見込みは立たず多大な被害を及ぼし続けています。再度同様の原発事故が起きたら日本はどうなるか。原因を徹底的に明らかになければならないということで、国会、政府、民間等各種の調査委員会が設置されて報告書が公表されるなど、私達国民には既に膨大な情報が提供されています。

一方、私も、今次原発事故の発生以来、法律実務家の視点から、その原因を解明する必要を痛感し努力を傾注してきました。そして、その成果の一端を取り纏めた私の論文が、最近発刊の岩波「世界」6月号に、「なぜ日本では大事故が裁かれないのか-過失を裁く法理の再検討-」という表題で掲載されました。本テーマはその論文の要点をご紹介するものですので、関心のある方は是非この論文をお読み下さい。

第1 今次原発事故は「人災」か否か・・今次原発事故の核心的な論点

 今次原発事故の核心的な論点は、この事故が、原発推進主体である国・東電にとって社会的に許されない安全義務違反の「人災」だったのか否かということでしょう。
「人災」ということであれば、関係者の権限に応じた責任が適切に問われ、再発防止策に生かされなければなりません。この点について国会事故調は「この事故が『人災』であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と断定しました。

 しかし、現在に至るも誰も政治上、行政上の責任を問われない状況が続いている上に、平成25年9月9日に東京地方検察庁がそれを追認するかのように、業務上過失致死傷罪(過失犯)等による告訴・告発事件について、刑事責任は問えないとして不起訴処分(嫌疑不十分)に付しました。なぜ誰も責任を問われないのか。国会事故調の「人災」という断定そのものが誤りなのか。誤りではないとすれば誰も責任を問われないということは一体どのような理由によるのかが問題となります。そこで、考究すると以下のとおりです。

第2 「リスク社会」におけるリスク管理はどうあるべきか

リスク管理とは、どの範囲までのリスク(危険)を事前に予測、想定して回避措置を講じるべきかという問題であり、事故の未然防止の観点からは、このリスクの予測、想定の範囲をどこまで広く設定するかが決定的な要因(戦略上の要因)となります。

現代社会は、科学技術の飛躍的な発達の恩恵に大きく依拠していますが、反面において科学的に解明されていない不確かな「未知の危険」がもたらす甚大な被害の脅威に曝された「リスク社会」でもあります。リスク(危険)が、過去に起きたことがあって誰にでも確実かつ容易に予測できる従来型の「既知の危険」から、過去に起きたことがなく科学的にも確実には解明されていない新しい形態の未知の危険」へと範囲が飛躍的に拡大しているのです。平成17年発生のJR西日本の尼崎脱線転覆事故や平成13年発生の明石花火大会歩道橋事故等の大事故の多くはこのような不確かな「未知の危険」を想定外としたことによって起こされたものです。リスク社会においては、未だ起きたことがない不確かな「未知の危険」についても適切に管理すべきことが事故回避のために社会的に要請されていることは多言を要しないでしょう。

第3 原発のリスク管理はどうあるべきか

原発の過酷事故は、一旦発生すれば人の生命、身体、健康、生活や環境等に甚大な放射能汚染による被害をもたらすものです。そのような原発業務の重大な危険性にかんがみれば、その発生防止のためには「万が一にも過酷事故を起こさないために人智を尽くして最善の努力をする」という最高度の注意義務と、その義務を果たすために不確かな「未知の危険」をも適切に想定して回避措置を講じるべき義務が社会的に課されていたということは、事故前から東電等をはじめ誰もが当然のこととして認識していたことではないでしょうか。東電等も、そのような義務を社会から課されていたことが明らかだったからこそ、「原発は多重防護で絶対に安全」等と当初から一貫して社会に宣言し、それに沿う市民教育等も強力に推進していたし、不確かな「未知の危険」を公表できない場合は意図的にこれを隠蔽して安全神話まで生み出したのでしょうから、このような義務が課されていたことは公然とは否定できないでしょう。

第4 今次原発事故はなぜ「人災」といえるのか

 事故前における津波の予測としては、東電等が想定していた土木学会の予測(波高5・7m、以下「東電予測」という。)と、地震調査研究推進本部の地震予測に基づき東電が試算した予測(最高波高15・7m、以下「推本予測」という。)がありました。原発敷地は海抜10mであり、実際の津波は4~5mでしたから、東電等がこの推本予測をも「想定」していれば、事前に回避措置がとれて今次事故は十分に回避できたでしょう。地震調査研究推進本部は政府に設置された地震に関する権威ある専門機関であり、その地震予測も当時の地震に関する最高の科学的知見に基づいてなされたものでして、十分に科学的根拠のある予測でした。しかし、東電等は、原発の安全につき、実際には、過去に起きたことがあって確実に予測できるリスク以外は想定する必要がないという対応を基本的に採っていたので、この推本予測についても「仮想的な波高数値」に過ぎないとして想定外としたことが明らかにされています。
原発は、国策として国の基幹エネルギーに位置付けられて推進されているのであり、そのような不確実な予測が出される度に停めるわけにはいかないというのがその理由であったということも明らかにされています。

 そのような理由による「想定外」は社会的に許されないことは明らかで、国会事故調が今次事故を前述のとおり「人災」と断定したのも当然でしょう。

第5 今次原発事故が「人災」であるのに、なぜ誰も責任を問われないのか

1 政治上、行政上の責任が問われない理由

  政治上、行政上の責任が問われないのは、その責任を問うべき国自体が原発推進主体であるために、自浄作用が発揮され得ない状況にあるということでしょう。

2 刑事上の責任が問われない理由

  しかし政治、行政から独立した司法が所管する刑事責任まで問われないというのは、一体どのような理由によるのでしょうか。

(1)法曹実務、学界を支配する時代遅れの法理論

  一般に事故は、故意にではなく業務上必要な注意義務を怠るという過失によって起こされるので、刑事責任としては業務上過失致死傷罪(過失犯)の成否が問題となります。ところが、この過失犯の注意義務の解釈に関しては、二つの考え方(学説)があるのです。一つは「具体的予見可能性説」で、既に起きたことがあって具体的(確実)に予見(予測)できる「既知の危険」だけを想定すれば足りるとする説です。もう一つは「危惧感説」で、未だ起きたことがない「未知の危険」であっても起
き得ることが科学的、合理的に危惧される危険については、当該業務の性質等によっては想定すべきこととなるとする説です。前説は従来から存在していた説ですが、不確かな「未知の危険」は全てリスク管理の対象外としてよいとする説ですから到底「リスク」社会には対応できません。そこで、このようなリスクにも適切に対応し得るように新しく理論構成されたのが後説です。新しいといっても既に昭和40年代に当時東大教授だった藤木英雄氏により提唱されたものです。したがって、東電等の刑事責任は、前説によれば問い得ず後説によれば問い得ることになるのは当然の理ですし、一般の常識としても当然に後説によるべきこととなるはずです。しかし、意外にも現在の刑事司法の実務、学界においては依然として前説が通説でして、東京地検の不起訴処分も前説によったものです。

(2)司法が果たすべき役割について

前説が実務において現在もなお通説であるというのは如何なる理由によるのかです。
端的に言えば、後説によったのでは企業等の経済的負担が重くなって経済成長の足かせになりかねないという国・企業等への過度の配慮が、司法にも及んでいるということでしょう。しかし、経済成長を国民の命より優先させるという発想は「民主国家」、「法治国家」の理念(正義)に反しますし、技術立国日本の将来をも危うくするでしょう。過失犯の成否というのは一見するとマイナーな事柄のようですが、実際には「リスク社会」における安全確保上の核心的な事柄です。司法が、社会の正当な負托に応えるべき責務を自ら放棄していないかが問われるのではないでしょうか。

今や一般国民が裁判員や検察審査会の審査員等として刑事司法に主体的に関与することとなり、「お任せ司法」から「自分たちの司法」への転換が時代の要請となっています。本テーマが司法の在り方をも含めて国民的課題として広く議論されるようになることを期待したいものです。