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2017年3月21日

平成29年4月例会報告

日時  : 4月13日 木曜日 18;30 ~ 20;30
テーマ :万葉集紹介(東歌・防人の歌)
場所  : 港区商工会館
参加費 : 1000円
担当  :飯田 豊

私と万葉集の最初の関わりは、子供時代の小倉百人一首のかるた遊びでしたが、当時は、「万葉集」の言葉すら知りませんでした。その後授業で勉強しましたが、難解な歌程度の興味しかありませんでした。5年ほど前から、縁があり、仲間が集い各地の万葉歌碑を訪ね歩く会を作りました。
 関東にある万葉歌碑の殆どは、東歌と防人の歌碑です。これは、大和の都人や大宰府の官吏の歌と異なり民衆の歌が多く、秀作かどうか別にして現代の人の心に響くものも多い。齋藤茂吉が「万葉秀歌(上下)」の中には、東歌・防人の歌は殆ど取り上げられていません。
 4月例会時に万葉集の概要と東歌及び防人の歌を中心にお話をしました。口語訳を含め簡単にまとめご報告いたします。尚当日は風邪のため殆ど声も出ず、皆様にご迷惑をかけたことをお詫びいたします。
1) 万葉歌碑を巡る会の紹介
 多摩地域(30市町村)における新しい生涯学習(楽習)の場として平成7年に発足しました。古典を読む会、絵画(水彩画、油絵、山水画)の会、ウォーキングの会等々を3ヶ月から10ヶ月勉強します。「万葉歌碑を巡る会」は、「万葉集を読む」2013年19月~翌年7月までの20回の講座でした。その講座終了後、万葉歌碑を巡る会を、会員10名で2014年10月にスタートさせました。
 3年半を経過し、27回に亘り、関東1都4県50歌碑以上を訪ねました。そのいくつかを紹介いたします。
2) 万葉集とは
  現存する最古の歌集で全20巻 4516首が収められています。 万葉集の意味はいくつかの学説がありますが、次の2つが、有力です。万はよろず、沢山の意味です。「葉」は何か?①言葉・歌②時代(世・代)。学問的な決着はまだついていません。  
編者は、大伴家持が深く関わったとされています。万葉集の最後の歌は、大伴家持の「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやけし吉事(よごと)」(新しい年の始めの初春、先駆けて今日のこの日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳きことよ)で締めくくっています。
万葉の時代は、実質舒明天皇(629年即位)の治世から130年間と言われています。巻頭歌は、雄略天皇(舒明天皇より約150年前)の御製ですが、雄略天皇が詠んだものではないとなっています。その後聖徳太子夫人や妹も詠んでいますが、これも定かではありません。そのため実質舒明天皇からとなっています。
当時は仮名もなく、表音式の万葉仮名と呼ばれるもので表記しました。まだ未だに読めていない文字があります。*6)参照
3) 万葉集の部立(ぶたて:歌の分類)
3種類の部立がある。
① 雑歌:儀礼、行幸、旅、宴会等公的な場で作られた重要な歌。約1500首
② 相聞歌:男女の恋を歌う私的な歌。約1750首
③ 挽歌:人の死を悲しむ歌。約260首
この部立とは別に、東歌(巻14)防人の歌(巻20)他があります。
4) 東歌
東歌は、東国(遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸、信濃・上野・下野・陸奥)に伝わる約230首で全て短歌です。方言も入っており、泥臭さもありますが、男女の機微をうまく歌っている側面もあります。土地に伝わる伝承歌もあり、作者は全て未詳です。
東歌の例として、「真間(まま)の手児奈(てこな)」を紹介します。真間の手児奈(愛らしいおとめ)は、万葉集以前から有名で、都人の山部赤人や高橋虫麻呂も歌を残しています。下総の真間(現在の市川市真間)には、絶世の美女住んでおり、皆から慕われたが、気のいい彼女は誰にとも決めきれずに思い悩み入水しました。
真間の東歌の一つに「葛飾(かづしか)の 真間の手児奈をまことかも われに寄すとふ真間の手児奈を」(口語訳:葛飾の真間の手児奈、あの子を、本当かいな、世間の人がこの私に言い寄せているそうな。あの真間の手児奈をさ)
5)防人の歌
 当時朝鮮半島からの脅威を守るために、兵役が
課されました。律令制では21歳~60歳の男子は
三年間の防人の軍役につく義務がありました。実
態は、東海道、東山道地域の人に限られていまし
た。その理由は、東国人が勇猛であるとの説と東国の勢力を封じるためとの説もある。
防人の総数は、約三千人、その大半は、筑紫地域、
大宰府、壱岐、対馬に配置されました。帰りは自
費(往きは、浪速の津から筑紫までは、官費)で
帰郷しないものもいました。
  防人が、故郷に残した家族(妻子、両親)を心
配する歌や残された家族が心配している歌があ
ります。84首収録されており出身地・名前が解
っております。
防人の歌は次の二首を紹介します。歌碑は、川
 崎市金程万葉苑にあります。「家ろには 葦火(あしふ)炊けども 住みよけを 筑紫に到りて 恋しけもはも」(口語訳:我が家では章火を焚く貧しい暮らしだけれど、それでも住み心地はよいのに。筑紫に着いてから家が恋しく思われてならないだろうな。)、その妻の歌は、
「草枕 旅の丸寝の 紐絶えば あが手と着(つ)
けろ これの針(はる)持し」(草を枕の旅のご
ろ寝で着物の紐がちぎれたら、わたしの手だと思
って付けろ。この針を持って。)と夫婦の思いや
りが感じ取れます。
6) 筑波山に関する歌
常陸風土記には、「昔尊貴な祖神様が、大勢の
神々を訪問し、富士の神に宿を乞うたところ、断わられ、富士の神を呪った。次に筑波の神に宿を乞うたところ、快く引き受け歓待された。神の好意を歓び祝福の歌を贈った。」とあります。「祖神様は筑波山を愉しむ山、富士山を人を寄せ付けない山にしました。」
  筑波山に関する歌は、25首あります。筑波
 山は古代より歌垣(嬥歌:かがい)で有名です。歌垣とは、男女が集い、飲食をし、歌謡をすることを言います。高橋虫麻呂の歌はその歌垣の様子を歌っています。
「筑波嶺に 登りて嬥(か)歌会(がひ)を 為(す)る日に 作る歌一首并せて短歌
 鷲(わし)の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交らむ 我が妻に 人も言問へ この山を頷く(うしはく)神の 昔より 禁(いさ)めぬ 行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな (口語訳省略)
反歌
男神に 雲立ち上り しぐれ降り 濡れ通るとも我れ帰らめや(口語訳:男神の嶺に雲が湧き上がってしぐれが降り、びしょ濡れになろうとも、楽しみ半ばで帰ったりするものか。)
筑波山に関する東歌一首。「筑波嶺に 雪かも
降(ふ)らるいなをかも 愛(かな)しき子(こ)ろが 布(にの)乾(ほ)さるかも」(口語訳:筑波嶺に雪が降っているのかな、いや違うのかな、いとしいあの子が布を乾かしているのかな)
この歌を万葉仮名でかくと次の様になります。  
「筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母」地名以外は、全く意味がない表音での表現になっています。
7)富士山を望む歌一首
  最後に子供時代に小倉百人一首で興味を持った歌に触れます。百人一首の歌は、藤原定家が選出した新古今和歌集のもので、万葉集と少し異なります。
 「山部宿祢赤人、富士の山を望む歌一首併せて短歌
天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 (はら) 降(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継(つ)ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は (口語訳省略)  
田子(たご)の浦(うら)ゆ うち出(い)でて見れば 真白(ましろ)にそ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪は降りける(口語訳:田子の浦を打ち出でてみると、おお、なんと、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている) 
 都人の山部赤人が、今でいう地方役所に赴任してきたとき、田子の浦を経由して由比に入ろうとしたとき初めて見た富士山の感動を詠んだものです。山部赤人がどの地で詠んだのか、定説は
 薩堹峠と言われています。この場所は、親不知子不知として有名な、崖が非常に海岸線に近づいた場所です。広重も東海道五十三次の由比の宿で薩堹峠(さったとうげ)から富士山を画いています。昨秋東海道線の興津駅から由比駅まで旧東海道を約10Kmを歩きました。薩堹峠から眺めると、一部駿河湾の上を通っている東名高速道、その左側を国道1号線、その左が東海道線で正に崖に寄り添っていました。
 当日は曇天であり、残念ながら富士山は隠れていました。日を改めてまた訪れたいと思います。
 *興味ある方は、"ライブカメラ富士山ビュー"を検索してください。
8)まとめ
  万葉集の勉強と健康のためウォーキングを組み合わせて活動を始めました。系統だった歌碑訪問ではなく、季節性や利便性の行き当たりばったりの順番でした。しかし数見て感じるのは、今でも通じる男と女の感情(東歌)や離れて暮らす夫・妻の思いやり(防人の歌)が、千五百年近く経っていますが、同じ感ずる想いがありました。またその地に行き、地勢は変わっているものも当時の雰囲気を感じる場所もあり感慨深いものがあった。この会もいずれは飛鳥の里への旅をと話あっています。
  当日は、30首程紹介しました。その議論の中で、東歌や防人(地方下級役人)が、歌を詠めたのだろう(万葉仮名)かとの疑問もでました。当時は大化の改新により、地方豪族の管理(国司をおき、役人の地方への派遣、税制の整備)や交通網の整備(五海道、駅制度)により、都との情報が早く伝わることが影響していると考えられる。
<参考文献>
• 新版万葉集一~四 伊藤 博訳注
• 改訂新版 万葉の旅 中 犬養孝著 
• 万葉秀歌 上下 齋藤茂吉著 
• 百分で名著 万葉集 佐々木幸綱著
• 関東の万葉歌碑 長島 喜平著
• 万葉集に生きる筑波山 宮本千代子著
• TAMA市民塾 講義録 講師 葛山由博