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2017年5月27日

平成29年6月例会報告

日時  : 6月8日 木曜日 18;30 ~ 21;00
テーマ :昭和と共に歩んだ国策研究会
場所  : 港区商工会館
参加費 : 1000円
担当  :篠原 昌人

―現在私が所属していますこの国策研究会ですが、一見在りがちな名前のようですが実は商標登録されています。"国策"なる言葉は昔から使いたがる傾向があり、戦後のことですが一部の研究会、団体、なかには総会屋までがこの名称を冠した時期があったようです。国策研究会ができた昭和の流行り言葉としては、もう一つ革新ですね。あるいは時局とか非常時とか、何か世界が、もちろん日本も新しい時代に入ってゆくんだ、という時流のなかで本会は生まれました。
最初に言ってしまいますが、城野宏さんはこの会にも出入りされています。会員ではなかったようですが、これから述べる国策の中心人物である矢次一夫とも会っています。二人がどう知り合ったのかですが、おそらく古海忠之という共通の知人がいたからでしょう。古海という人は満州国の高級官吏ですが、城野さんは古海との対談本を出されていますね。両名とも戦後の二十年近くを中国で抑留生活を送りました。矢次一夫も、満州人脈として古海をよく知っていましたから。
―国策研究会は、日本初のシンクタンクといってよいでしょう。そしてこの産みの親であり、戦後も昭和58年まで生きた人こそ、矢次一夫でした。明治32年生まれの佐賀県人です。私がこの会を知ったのは丁度平成になった時でした。ある韓国人からでこの人が国策の会員だったのです。時すでに遅しでこの昭和の怪物は世を去っていましたが、丸の内の新国際ビル8階事務所を訪ねたのです。
いったい矢次一夫とは何者なのか。その国策研究会はいつできたのか。矢次は二十代で労働問題に首を突っ込み、昭和の初めには労働事情調査所という研究所を作ります。そして昭和8年(9年という説もあり)に国策研究同志会という、一種の時事懇談会を作るわけです。同志相集い意見を述べ合い、時には講師を呼んで一席ぶつという、今日では珍しくもない形ですが、当時にあっては先進的であったのではないでしょうか。そして昭和12年、近衛内閣の発足直前に国策研究会と改名し本格的な活動を始めます。面白いことに矢次は、再発足とともに名前を変えています。親がつけた名は、愚(おろか)でした。九州勤王の志士に松浦愚という人がおり、これを頂戴したというのです。でも幕末~明治始めならいざ知らず、昭和に入ってからも、愚、では具合が悪いと思ったのでしょう。一夫と改名します。本人の述懐では長谷川一夫にあやかった、というわけです。名を変えた日、おそらく役場に届けた日でしょうが、昭和12年7月7日でした。時代はまさに矢次一夫を必要としていたということでしょう。
―当時は治安維持法というものがありまして、特高なるものが社会団体にも目を光らせて居りました。当然、国策のことも承知だったと思いますが、すごいところは、特高・憲兵の類を一切入れなかった、つまり会員は勿論、オブザーバーとしても入会させなかったというのです。これは矢次の威光でしょうか。矢次は大正10年に上京しますが、身を寄せたのが千駄ヶ谷にあった北一輝の家でした。ここには食客めいた人物が出入りしており大川周明や東大の学生であった安岡正篤がいました。大杉栄の最初の婦人であった堀やす子もいてお茶を入れてくれたそうです。後に矢次さんは2・26事件で十日程憲兵隊に留置されますが、なんと北と同房となります。当時北一輝といえば、『日本改造法案』を出し相当に名が知られていました。しかしこの書は秘密出版でしたから、警察からもマークされていました。北の家は監視対象であった筈です。邸内にはいろいろな人物が居る、外には警察の姿もあるというわけで、矢次さんにとっては交友を広める機会となったことでしょう。北の家を出た矢次は、協調会という労働争議の調停機関のようなところに就職します。ここでいろんな争議を体験し解決します。その最大のものが、現キッコーマンである野田醤油の大争議でした。この時の縁が現在まで続いており、キッコーマンの創業者である茂木一族は国策研究会役員に名を連ねています。労働問題を通じて革新政党の麻生久(戦後の民社党代議士、麻生良方の父君)、花型教授、吉野作造とも知り合っています。
―さてここに昭和8年の同志会当初の会員名簿を持ってきました。今となっては耳にしない名前が多いですが、割合知られた人物を拾ってみましょうか。経済評論家の高橋亀吉、美濃部東京都知事のお父さん、達吉博士、戦後の社会党委員長、勝間田清一、戦後の経済学会で活躍した東畑精一らです。それに内務省関係者が目につくのは、矢次の経歴からいってうなずけるでしょう。同じ昭和8年に、昭和研究会というものが発足しています。近衛文麿のブレーン機関です。両者は似たもの同士でして、掛け持ち会員も相当いたようです。昭和研究会を舞台に活躍し歴史に名を残したポピュラーな人物としては、尾崎秀美ですね。朝日新聞の中国専門記者として有名で、近衛の知恵袋と目されていましたが、ゾルゲにつながっていました。両者の違いは、国策の方は万機公論に徹すべしという風でしたが、昭和研究会は近衛のための、近衛政権の政策作りといった感じが強いです。昭和研究会は昭和15年に解散しますが、国策研究会は戦争中も昭和20年初めまで活動を続けました。
―昭和12年6月、第一次近衛内閣が発足すると国策研究会は猛烈な活動を開始します。研究委員会というものを作るわけです。第一は外交・安保、第二は政治・行政、第三は産業・経済・財政というように六つまで作るわけです。会員をそれぞれ割り当てます。
昭和17年の名簿をみますと、石坂泰三、岸信介、五島慶太、松永安左エ門、といった名が見えます。東急の五島といえば、西武の堤康二郎ですが堤の名はありません。操觚界を代表してでしょうか、細川隆元の名前があります。細川はこの時、朝日のブエノスアイレス特派員でした。アルゼンチンは数少ない枢軸国だったんですね。法人会員をみますとこれまたすごいです。三井総元方(日本橋室町)、三菱社(丸の内)、住友本社(大阪北浜)、王子製紙、昭和電工、日銀、日本放送協会、日本鋼管、中山製鋼、日本郵船、鐘紡、東洋紡、足袋の福助、薬のワカモトにいたるまで正に多士済済です。ワカモトの社長と近衛は懇意でした。近衛は時折ワカモトの別荘を政談に利用したようです。国策が先ず取り組んだのが電力問題、即ち電力の国家管理問題でした。昭和初期までは、小さな電力会社が乱立していました。この上に、五大電力、東京電灯、東邦電力、宇治川電気、大同電力、日本電力がありました。電力の国家管理とは、発電と送電を国家管理とするものです。国策では早速、電力問題研究員会を作り対案作りに着手します。会員には官僚嫌いの松永がいてあくまで民営を主張しました。この結果、第一案は国家管理、第二案は監督管理という結論でした。官営、民営の二案でした。政府は官営案をまとめ国営会社として日本発送電を立ち上げます。松永安左エ門は戦後、この日本発送電を解体することに死力を尽くし、現在の9電力体制を作り上げるわけです。この松永の活躍は『興亡』(白桃書房)という本に詳しく書かれています。実に面白い本です。この中に矢次さんも登場します。松永評を述べていますが、"勝手な男"とかたずけていますね。勝手な人だから大事業ができたんでしょうが。
―また三国同盟問題です。すでに日独防共協定は成立していましたが、これを同盟に格上げしようというもので、当初は日独の二国同盟でした。イタリアは後の参加です。畢竟ドイツを採るか、英米協調かという問題です。ベルリンオリンピックを成功させて躍進著しいナチスドイツに与するか、伝統的な大国の英米、ことにイギリスですね、日英同盟以来の伝統を守るか、という選択でありました。国策でも議論を重ね、当然二つの意見が出ます。①防共強化即同盟論、②英米協調論。同盟論を主張したのが有名な代議士の永井柳太郎です。もうこの人の名を耳にすることはなくなりました。原内閣を攻撃した演説"西にレーニン、東に原敬"は政治史に残るものでしょう。永井柳太郎は逓信大臣として電力国家管理法を成立させました。彼の絶頂期でありましたろう。英米協調を訴えたのが、佐藤尚武という前の外務大臣でした。中国に対しても協調的な人物でした。永井は現役代議士、佐藤も先ごろの外相という、政府に近い会員であることから、国策の提案が自然と政策として実っていく結果となります。三国同盟はすったもんだの挙句、第二次の近衛内閣で成立します。昭和15年9月ですが、強力な推進役が外相松岡洋右でした。
―こうした政策面の他に、矢次個人としての色彩が強いのですが、キャビネットメーカーとしての役割があります。昭和14年から東条内閣誕生までの昭和16年に、矢次は全ての内閣の誕生に深く関与しています。あるいは誰を推薦し、あるいは誰を退け、全て矢次の思う通りになったわけではありませんが、隠れた元老の如き存在だったといえるでしょう。矢次は当時四十代半、男盛りにしても底知れぬ威力を感じます。次第次第に軍部の力が強くなるわけですが、矢次は有力な軍人と結びつきます。武藤章という、A級戦犯刑死となる男ですが、武藤が昭和14年8月に軍務局長となるや、いろいろな相談を受けるようになります。武藤から頼まれて作成したのは、総合国策計画というものでした。今後十カ年を見通して内外の政策をまとめたもので、200ページに及ぶものだったそうです。不幸にも戦争のため焼失し残っていませんが、断片的に要点を挙げてみましょう。三国同盟には反対、したがって欧州戦争には不介入、対米友好を維持しソ連を刺激せず、支那事変を可及的速やかに解決すべし、というものです。尚武藤ですが、アメリカとの戦争には最後まで消極的でした。アメリカとの戦争になれば海軍が主体となることから、武藤はしつこく海軍側に勝算をを問い質しています。しかし海軍は、公の席上では確答を避けています。最後の決は総理、この場合近衛のことですが総理に一決するという回答をしています。武藤としては、海軍がはっきりと勝算なしといえば対米戦は避けるという考えでした。これは矢次も同じであったのかどうかはわかりません。昭和16年10月17日朝、武藤よりポスト近衛を聞かれ、東条を推しています。陸軍は意外の感に打たれますが、矢次の考えとしては、軍部の起こした戦争は軍部に責任を取らせるという考えでした。矢次さんは、東条とも銀座で痛飲した仲でした。かくして国策は昭和20年3月まで困難な時期ではありましたが活動を続けるわけです。
―矢次さんは戦犯には問われませんでしたが公職追放となりました。戦後の再出発は昭和28年でした。昭和32年、矢次は国交回復前の韓国を訪問します。彼と親しい岸内閣でした。時の外相は藤山愛一郎です。この時、矢次は岸信介の李大統領宛親書を持っていたのです。日韓はすでに国交回復の予備会談を始めていました。回想によると、日韓併合は失敗であったこと、国交回復については双方よく話し合って進めたい、という内容でした。韓国独立後、最初に韓国で李承晩大統領と会ったのは矢次そのひとだったのです。会見場所は景武台、今の青瓦台です。ここは旧朝鮮総督公邸でして、景武台と称するのが正しいのです。李大統領が倒されて青瓦台と名を変えましたが。単に瓦が青いというだけで名ずけたのです。矢次の役割はまさに民間特使であり、交渉を促進させる目的を持つものでした。しかしこれが明るみに出るや、土下座外交だという批判が起こりかえって交渉を頓挫させる結果となってしまいます。いつの世も真実は理解されないものでしょうか。また昭和47年、日本中が日中国交回復で湧いていた時、「周恩来首相に与ふる公開状」というものを書くんですね。これはお手本ともいうべきものがありまして、「ヨッフェ君に与ふ」です。ヨッフェは大正の終わりに日ソ国交樹立のために日本に来たソ連人です。北一輝がこれを書いたんですが、要するに国交樹立反対なんですね。これを持って行ったのが何と矢次なんです。矢次は帝国ホテルでヨッフェと会っているんです。おそらくこの時の経験で、日中国交回復そんなに急ぐな、日本の要求を簡単に聞くことはない、ということを言いたかったんでしょう。この文書は要路の人に配られましたが、周恩来までは届きませんでした。矢次がいなくなった今も、本会は森トラストの森会長をトップにいただき月二回の講演活動、月一回の会報誌発行を続けています。
(完)