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2020年12月19日

令和3年1月例会報告

日時  : 1月14日 木曜日 18;30 ~ 21;00

テーマ :城野先生の「情況判断の行動学」の第三章から学ぶPart3


場所  : 港区立商工会館

参加費 : 1000円

演者  : 石田 金次郎

 コロナの蔓延により、1月11日再度緊急事態宣言が発せられ、施設の利用が制約され、1時間短くなりました。

第三章は、情報と立場の検査です。

事実は厳然と事実として情報によって変化せずにあるものである。
が、その事実に関する情報は入手した時の自分の立場と情報を出した人の立場をしっかり検査する必要がある。何故なら情報は、見る人の立場によって違ってくるからである。
立ち位置が違うことによる認識の対立は、当たり前である。
昨今では、事実は、グローバル化やサプライチェーンの進展によって、見えにくくなっており、意思の疎通が益々必要であろう。
参加者からは、原発問題への認識の違いや電力会社の自然エネルギーへの対応、電気自動車の意義など、幅広い問題意識の面での議論があった。
尚、情報の面で、情報の種類は、日常的情報と戦略的情報の2つあり、中でも現場を踏んだ情報は貴重であるとしたが、ビッグデータの存在も論議した。
(ビッグデータ概略)
最近は、入手しうるあらゆる情報を大容量の各種コンピュータに集め、そのデータは巨大で複雑なデータの集合体となり、課題克服の為に、それらの情報の収集・取捨選択・保管・検索・解析・可視化等をして、活用する場面が急拡大している。
これらのビッグデータの主導権を誰が握るのか、また、データを管理する組織の能力と分析アプリケーション能力が要求される。
戦略及び戦術は、これらの情報によってより一層強化されるのでないかとの論議あり。

「新製品の発売・決定」の段では、全ての商品は売れる側面もあるし、売れない側面もある。その評価は、確定的事実を持たないので、あくまで胸算用的推測になる。が、推測以外の昇進や組織などの人的要因などもある。これらは戦術的問題であり、事実が是非を証明してくれる、と述べている。
小生、厚板を扱ったことがあり、原油の貯蔵タンクの底版がスラッジと鉄の間で電触が起こり腐食してしまい定期修理が大変だというユーザーニーズがあり、鉄に代わり犠牲陽極になるアルミを表面処理したアルミ溶射鋼板なら長持ちすると提案し、一部採用されたが、取扱の問題で最終的には没になった。新商品としては良いのだが、相手の生産販売体制に合わなかった経験あり。それ以外にも幾つも新規事業を見てきたが、「帯に短し たすきに長し」で、開発費も回収できず、結局本業回帰の大合唱で消えていった。新製品、新分野への進出は正しい情報の認定・収集が大変難しいものであるとの痛い経験をした。

「車公害という情報」では、自動車の排ガス公害から、凶器であり根本から考え直すべきでとの主張がある。一方では自動車は国民生活を支えている大きな役割を負っている。その両方のバランスをはかるという行動が必要である。自動車論議をタネに結構な暮らしが出来る「商売としての立場」に流されてはいけないといっています。
大阪の国道43号線沿いに住んでいたことがあり、身を以て体験しています。今は知りませんが、あの排ガスの臭いを嗅ぐと頭が痛くなる。本当に健康に良くない。
自ら体験した排気ガス公害の発信は商売の立場だけの問題ではないと思っています。
1988年12月国道43号沿線の住むぜんそく患者らが企業 や国、阪神高速道路公団などを相手に訴訟を起こしました。
裁判では、2000年に神戸地裁が自動車の排ガスの一部排出差し止めと健康被害に対する損害賠償を命じ原告が勝訴し、その後国が環境対策を進めることで漸く和解が成立しました。
平成11年(1999)石原都知事が都民の健康を守る為、東京の大気汚染を改善すべくペットボトルの中の黒煙すすを見せて、それを排出する旧式のディーゼル車に粒子状物資(PM)を捕集するフィルターの装着を義務づけました。小生が勤務していた会社で装置を開発・認可を受け販売しました。
何社かの小さな企業が開発し認可を受けたのですが、装置としては短期の用途としては使用できるが、長期には使えないものでした。しかし、時々、東京の空が綺麗になったというTV報道があり、重要な役割を果たしていたのだと満足感に浸れました。大手の自動車メーカーはほおかむりです。大手のエゴでしょう。

「東京は不毛の砂漠か」では、東京都知事選での某政治家の太田薫氏の応援演説で、「東京都は今病んでいる。隣は何をする人ぞという関心の持てない不毛の砂漠」と発言した。人間は親切にされれば親切で返す。これが主流である。応援演説としても、都民を馬鹿にした精神荒廃の人間だ。
人間関係は交互作用である。自分勝手な考え方でないかと非難している。
思うに、社会は、情報を発信するものは敬意を尊敬がないと成り立たない。それを踏まえた社会人としての発言に責任を持たなくてはいけないということであろう。