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2021年2月20日

令和3年3月例会報告

日時  : 3月11日 木曜日 18;30 ~ 21;00

テーマ :城野先生の「情況判断の行動学」の第三章より 続き


場所  : 港区立商工会館

参加費 : 1000円

演者  : 石田 金次郎

(復習)
状況判断の行動学では、先ず戦略決定がある。事物は必ず戦略的に対立する2つの側面から成り立っていると言っている。そして2つの側面の内、2つを同時に行うことは出来ない,どちらか一つを選ばねばならない。,それが戦略決定である。
戦略を実現する為の手段として戦術がある。戦略と戦術が混同してしまうと問題は解決できないし、それがはっきり分離していれば問題は簡単に解決する。
次いで,情報収集がある。ここでは、日常的な情報収集と一定の戦略目的で収集の2つがあると言っている。例として,ハイライトの箱の色を挙げて,それを表面・裏面・左・右・上・下と観点を変えるとみえてくる色が違う。総合的多角的に見て,評価判断する必要がある。因って事物の片面的な情報だけで判断を立てるのは危険である。
そして、立場の検査である、情報を入手したその時の立場と情報を出した人の立場をしっかり検査する必要がある。事実は、言葉や表現を変えてもいささかも変化しない。事実そのものである。例えば,人間を見る場合、見る人の立場によって入手される情報内容が違ってくる。従って、見る人の立場によって,認識の対立がしばしば起こるのは不思議ではない。
そういった議論の流れの中で,新製品の決定問題や車公害という情報の評価を具体例として取り上げ、意見のある立場を並べて、両者の調整を図りバランスをとらなければならないとした。
(今回の議論)
今回は「東京は不毛の砂漠か?」という例をあげている。
某政治家の発言「東京都は今病んでいる。隣は何をする人ぞという関心さえ持てない不毛の砂漠」の評価をめぐる議論である。この議論の出席者の意見は、「政治家と一般市民との立場の違いが発言」に現れているので、この発言を持って東京都民をバカにし全ての精神荒廃の人間だという事ではない。東京都民の状況を表す情報でなくて、発言者本人の精神状態に関する情報と言うことが出来る。
「盲目的な自然崇拝」についてである。
「自然にかえれ」というのは,自然の中で自然と闘いながら生活している人間から出た言葉ではない。工業の支えがなくて自然の中で自然だけに頼って人間が生きていくのは,非常に過酷な環境である。都会や工業からの支援がなかったら、自然礼賛論は成り立たない。
参加者からは,田舎には仕事もなければ、都会に出稼ぎを夢見るのは極普通であるとの意見あり。都市化の進展と,自然からの乖離なのである。発言者の日常行動に関する情報である。
続いて、「立場による評価の違い」である。
「自動車が走り,人出が多く,ホテルやお店が沢山できて俗化した。自然はすっかり損なわれた。自然破壊はけしからん。」や「近頃は,都市生活者が増えて,自然に接する機会がなくなった」という話しをよく聞く。事実は,素晴らしい自然があり、人が沢山遊びに来る、ということ、また、昔なら沢山の庶民大衆が手の届かぬ自然と接触できるようになったからである。
この手の話しは,軽井沢や清里でもいわれている話しである。もとから別荘地に住んで優雅な生活を送っている人からすれば、沢山の庶民が押し寄せるのは歓迎したくない事態である。立場による評価の違いと言うことであろう。
NHKで放映した「マルコポーロの冒険」というアニメ映画も作者欧州人が善人で、アラブ人を悪人に見立てた物語を描いているので、アラブ人に反発を受けた。アラブ人からすれば、一方的な観点であり、承服しかねるものである。我々の小さい時に西部劇をよく見たが、インディアンがいつも悪役となり、先住民を追い出した白人の正義の物語であった。同様である。
「貿易摩擦に見る立場」では、アメリカの赤字の半分は対日赤字という情勢下での日米間の貿易格差問題の捉え方が、日米の立場の違いによって違うのは当然である。日本のジャーナリズムと学者は、アメリカのメーカーや輸出業者の立場に立って、黒字減らしとか輸出主導型から内需主導型にといった主張をしているが、消費者の立場に立てば、違う主張になるはずである。彼らの主張は日本と日本人の立場になっていない,と論じている。
この問題には、同じパイを囲んで麻雀をするのであれば、相手が箱点になるようなゲームは長続きしないという議論が当時なされたのを覚えている。今の米中の貿易不均衡も同様である。加えて覇権争いが明白になっている限りは日米貿易摩擦のレベルでは無い。アメリカからドルを稼いで新興国戦略にそれを投ずることは,アメリカが許すはずがない。調整する手段として,関税や為替レートなど様々あるが、それとて十分効果を上げ得ないであろう。これは、どちらが屈するかでないと絵が描けないのでないか。一党独裁体制の国家主義と自由民主主義体制とのぶつかり合いである。
このような議論になって,時間が終わってしまった。