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2022年4月26日

令和4年5月例会報告

令和4年5月例会ご案内

日時  :5月12日 木曜日 18;30 ~ 20;30

テーマ : 城野先生の「情況判断の行動学」 の第二章「脳活用の東西比較」の後半

場所  : 港区立産業振興センター
       10階 会議室4

演者  : 神前 直哉

「日本人の知恵の構造」
(1)「創造」とは新しい組み合わせ
「日本人は猿真似が上手で、西洋の技術や文化をすぐ真似することはできるが、創造的活動は不得意である」ということがよく言われる。
創造とは、これまでなかったものを新しくこの世につくり出すというわけであり、世界にこれまで存在しなった物質元素を作り出すわけではない。元素という物質は地球生誕以来この世に存在しているわけで、発見はできるけれど創造はできない。技術発明といっても、そういう物質の新しい組み合わせをつくり出すことなのである。日本人はこうした仕事を少しもしなかったわけではない。

(2)日本語は素晴らしい創造物
中国語は元来象形文字で成り立ち、言語構成も一つ一つの意味と音声をもっており、元来日本語とはまったく性質の違う言語である。その質的な違いを持つ中国語の文字を日本語に取り入れ、その音声だけを使って古事記や日本書紀時代の日本語を表現した。
それから半世紀もたつと、万葉集に見られるように、象形文字である中国語の文字の意味をとって、日本語の音声をあて、独特の言語をつくり上げてきている。このやり方がどんどん発展しカナ文字をつくり出し、さらに象形文字である中国語も使い、両者を融合させてしまった。
このように、性質の違う二つの言語の結合と、新しい発展という世界文化史に珍しい創造を行ったのである。
ここで、中国語ではバイデン大統領を「売電」と表記するようであり日本語ではカタカナで表記できる。このように日本人は言葉の創造を行ってきた旨の議論を行った。
(3)地震を考えた建築物
日本の建築は木造が主体で、ヨーロッパの石造の大建築に比べて、貧弱だという見方がある。
日本では木材が豊富であること、地震が多いという条件のもと五重塔をはじめとする地震による振動を計算に入れた耐震構造にすぐれた日本の建築法を発展させてきた。これは現在、霞が関ビルなどの高層建築における軟性構造の建築物として、千年も昔にはじまった日本式の創造性は今に活かされているのである。
ここで、現在の日本では経済的面からコンクリートによるマンションの建造などが行われており通常の経済耐用年数は50年程度といなっているが、さらなる研究開発も行われている動向について議論を行った。
「日本人は感情的で論理性がないのか」
(1)誤解されてきた日本人
創造性がないという議論と同じで、ヨーロッパ的論理性を例にして、日本にはそれがないと学者の間でしばしば発言されているようである。
日本人には、ヨーロッパ哲学が社会活動の基準になっていないというのは事実であるが、それだからといって日本人は哲学がないから論理性がなく情感的だなどとは言えない。日本人には日本人の論理性があるのである。そればヨーロッパの論理とはちがっていることだけの話である。
(2)中国の論理と日本
中国人は水田耕作の民族であり組織社会の意識の伝統をもっている。しかし、非常に古くから文化も経済も発展しているため、国家としての政権形成も早かった。
耕作農民の社会が戦乱の災禍を受け、収穫ができぬとなると、他人のもっているものを奪うより外は生きていく方法がない。こうして、中国には組織社会の脳反応とともに、ヨーロッパ論理と同じような個人所有の論理を発展させており、その表現は儒教の各派ともなってあらわれてくる。日本では明治になって入ってきた西洋哲学に感服してしまったが、二千年前の中国の個人所有論理の哲学は、その本質においてとらえられていなかった。
(3)海外思想のとりいれ
儒教もまた、日本人の生活の中には、組織社会の論理の部分だけが容易にとり入れられ、実生活の推進エネルギーとなり得た。武士階級の組織目標に対する行動の規制準則として作用し得たのである。しかし、儒教の個人所有の論理は、元来の日本人にとって、生活には受けいれられる性質のものではない。だから学者や文化人の間での装飾品としては作用したが、庶民生活の中に溶けこむことはできなかったのである。
(4)脳反応と日本経済
第二次大戦後の日本は、世界中から原材料を買ってきて加工し、買い入れた原料分を加工商品輸出で支払い、大部分を残して国内で消費し、国民生活を高めるという暮らし方を発明した。
これを支えているのが、日本古来からの組織社会の伝統であり、教育普及により、各人が各人の意見を自由に持てるが、同時にまた、組織社会の目的達成へ生き甲斐を見出すという、脳反応の存在なのである。そのことは、組織内において、各人の能力をできるだけ多く発揮するということに活かされているのである。
(5)キリスト教の育たない風土
日本でのキリスト今日の布教は、戦国末期からはじまるが、ヨーロッパではじめ考えていたような発展をしなかった。
これはヨーロッパ論理の根本が個人所有の論理であるところに、キリスト教という排他性中和の唯一神が必要とされ、また、経済問題に適用されると、カルヴィニズムにもとずく「資本主義の精神」ともなり、これを反対の側から追及して、マルクスの「搾取」の論理となるわけである。
日本人は個人が神の許しをうけてみても、実効は何も出てこない。耕作なり、収穫なりの組織集団の一員から外されると生きていけなくなる。村八分をはずしてもらうには、組織社会の許しを乞う以外にはない。だから日本の論理は個人所有でなく、組織社会との関係ということなのである。
こういうように、脳反応をつくり上げられている日本人にキリスト教がうけ入れられるのは日本人の組織社会論理には向かない範囲においてでしかない。
(6)まとめ
こうして見てくると、日本人は論理性がないという意見は、日本には、ヨーロッパ的論理性がないということまでは事実にあっているが、その反面、日本人としての組織社会の論理をもっているという事実を無視したものといえる。
日本人は自分の論理を持っていることに自信と誇りをもつべきである。日本人の脳の作用を十分に発揮させ、すばらしい社会と人間生活をつくっていくためには、この自信と誇りの上に、自己の「能力」の発展に確信をもたねばならない。
今回において「情勢判断の行動学」は読み終わったため、次回よりは「脳力開発と日本経済」 テープを聴く事が決定されました。