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2023年1月22日

令和5年2月例会報告

日時  : 2月9日  木曜日
      18:30 ~ 20:30
場所  : 港区立産業振興センター
       10階 会議室3
テーマ : 「東西古今人間学4」後編
      テープを聴く
演者  :  古川 彰久

敵か味方か、戦略決定
何が戦略で、誰が戦略決定をするのか、秀吉は理解して実践していた。
上月城というのは尼子氏一族の領土だったのですが、毛利に取られ、秀吉は尼子氏援助していたのです。ところが毛利が攻めてきて、兵力量は同じ位でしたので、秀吉は上月城を救うべきか見捨てるべきか迷ったのです。
そこで秀吉は信長に使いをやって決裁を仰いだのですが、信長の返答は見捨てろというものでした。そこで上月城は落ちて、尼子氏一族は滅んでしまうのですが、相手を助けるか見捨てるかということは戦略決定なのです。戦術上の問題ではないのです。相手を味方にするか敵にするか、これは戦略上の問題です。信長がいる間、秀吉という男はどの戦でも戦略決定は信長に従っているのです。
 会社の中でも戦略決定と戦術決定はきちんと区別しなくてはいけない、というのはこういう点をいうのです。社長さんは戦略決定をする。部長さんとか常務さんというのは戦略決定をやってはいけないのです。
 ところが明智光秀は戦略と戦術の区分ができなかったのです。光秀は丹波を攻撃して丹波を取るのですが、その時、波多野一族というのがいて頑強に抵抗するのです。光秀は手に負えなくなり、自分の母親を波多野一族に人質として出し、「お前らの命は助けるから何とか降参するように」と言って、波多野一族を降伏させるのです。そして丹波全域を手に入れるのです。
 そこで光秀は信長の所に行き、事情を説明するのですが、信長は「馬鹿者め!全部殺せ」と怒るんです。それで、波多野一族は皆殺しになってしまうのですが、波多野の残党は人質になっていた光秀の母親を殺してしまうのです。
 これなどは、光秀に戦略と戦術の区分がなかった証拠です。光秀は助けるか殺すかの戦略を決定して信長の所へ持っていったわけですから、信長は戦略決定ができないわけです。
 戦略というのは二つの中の一つですから、殺す場合にはどうするか、助けた場合にはどうするかの戦術が決定できない。光秀の場合はそのよい例で、母親も失ってしまったといえると思います。

小牧・長久手の戦い
 秀吉という男は、実に戦略決定のうまい男だといえると思います。その一番よい例が、小牧・長久手に表れていると思います。
 小牧・長久手というのは、小牧が主戦地で長久手で戦闘をやったのです。信長が死んでから秀吉の勢力が大きくなったのですが、信長の子供、織田信雄はおもしろくなくて、秀吉に反抗するわけです。そこで信雄は、秀吉をやっつけろと徳川家康に泣きついたのです。家康は信長の同盟者ですから、信雄に加勢して秀吉に対抗しました。秀吉は信長の部下でしたが、家康は同盟者であっても部下ではなかった。その秀吉の勢力が大きくなってきたので、家康は自分の力を誇示しておこうととでも思ったのでしょう。
 秀吉はこのとき小牧に陣を取り、総兵力約十万、対陣する家康方約三万。兵力からいっても秀吉の方が有利です。しかし彼は家康と対陣して、じっとしていました。小説では家康が怖かったからなどと書かれていますが、決してそうではない。秀吉はそんな小物ではありません。
 彼はこの時戦略を考えていたのです。戦略とは、つまり天下統一、天下統一するためにはあと五つの障害を突破しなければならない。まず島津、小田原の北条、伊達等をやっつけなければならないと考えていたわけです。こういう戦略を立てていましたから、ここで兵力をなくしたくなかったのです。だからこの10万の兵力を失うことなく、家康をこちらの味方にする方法はないかと、考えていたと思います。
 秀吉は家康に勝ち戦をさせたのです。というのは家康というのは家柄のある男ですから、負け戦になったら撤退しながらも最後まで戦うだろうと見抜いたのです。そうすると戦いは長引き、失う兵力も大きい。そうしないためには相手に勝ち戦をさせ、こちらから講和を結べばよいと考えたのだろうと思います。

天下を取る戦略
 秀吉の部下に池田勝入斎という男がいたのですが、この池田が秀吉にある作戦を真言したのです。というのは、今、家康は本国の三河を空にして出てきているから、私たちが三河に侵入して撹乱していましょう。家康は驚いて本国に兵を返すでしょうから、その時にあなたは家康を責めればよいでしょう。というのです。
 これは家康という人物を考えた場合、大変無謀な策なんです。相手のホームグラウンドに入るわけですし、情報網だってしっかりしているから必ず見つかる筈なのです。秀吉はこのあたりのことは見抜いていて当然なのですが、この無謀な策に対してOKの返事を出してしまうのです。
 最初、このことをとっても不思議に思ったのですが、後から考えてみると、十分納得できたのです。そこで池田勢と、彼と一緒に行った森勢らはどうなったかというと、長久手で家康方に急襲されてしまうのです。ここで推進作戦は見事に失敗してしまうのです。
 この長久手の戦いで「家康は強かった」などといわれるのですが、私はそうは思わないのです。自分のホームグランドに入ってきた兵士の情報も取れないでいるような司令官だったら馬鹿者です。急襲できて当り前なのです。
 不思議なのは、一万何千人の池田と森の兵士の損害が約千人なのです。本当なら全滅している筈なのに、しかも徳川勢の討ち死に者は七百人ぐらいです。人数的には徳川勢の方が少ないのですが、比率的には徳川勢の方が余計に死んでいるわけです。しかも、このとき秀吉の本体は動いていないのです。家康を本当にやっつけるつもりなら、相手が手薄になったときに攻める筈です。だから私は、いろいろな歴史家や小説家が書いているように、「これは家康の采配がうまかったから」とは全然思わないのです。
 これは秀吉の戦略からいって、損害を出さないで家康を味方につけるためには、家康にに勝ち戦をさせなければならない。そして彼と講和条約を結ぼうという、秀吉の戦略だったとと思うのです。相手を勝たせておけば、戦力的には秀吉の方が三倍以上の戦力でまさっているのですから、お互いに対等の立場で講和が結べるのです。
 秀吉はこういう作戦を立てたと思うのです。そう考えてみると、彼の行動というものがよく理解できるのです。この合戦の間、彼は家康を一度も攻めることなく、信雄に味方した小さな城を打ち取っているのです。それは見事なほどきれいに討ち落としています。
 とうとう信雄は秀吉に降参して、単独講和を結んでしまうのです。つまり、家康に泣きついて秀吉を攻めたのに、家康はまだ秀吉と対陣しているのに、信雄は単独で降参してしまうのです。
 家康としては立場がなく、戦う名目もなくなってしまうのです。そして、ちょうどこの時になって秀吉が、勝たせた家康に「どうです、講和しようじゃありませんか、お前さんが勝っているのですから」と持ちかけるのです。さすがの家康も秀吉の戦略に見事にひっかかるのです。そのあと秀吉は、家康を持ち上げて、結婚していて妹を離縁させて家康のところに送りつけたり、母親までも娘に会いに行けといって、家康のところに送っているのです。
 家康の方からすれば、妹と母親を人質に出してよこしたんだと思いますから、これはもう断り切れないのです。しかも面目は全然失っていないのですから、余計に断れないわけです。
 講和を結んだあと秀吉は家康に、「どうです。嫁ももらったし、京都に遊びに来ませんか」と誘うのです。家康としては秀吉に転嫁を取られたと思うのですが、「まあ、仕方がない、俺にこれだけできるのだから天下は秀吉のものだ、あとは島津と北条をやっつけるだけだから、ここで反抗すると滅んでしまう」と考えるわけです。しかも講和を結んでいるわけですから、立場は対等です。秀吉の部下ではないから、家康の面目も保たれているわけです。そして、とうとう秀吉の部下になってしまいます。
 こういうふうに見てきますと、小牧・長久手の戦というのは、戦術的な戦の問題ではなく戦略的な戦なんです。最高戦略の観点からみて戦争をしているのだと思うのです。