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2006年12月30日

『いきいき創造の会』感動体験発表会第10回報告

『いきいき創造の会』感動体験発表会第10回報告
開催日時 :2006年12月23日(土)13:30~16:30 
話題提供者:米田 晃 氏  人間科学研究所所長 「21世紀創造塾」主宰
           サトルエネルギー学会監事 地球マネジメント学会評議員
テーマ「苦難こそ人を成長させる!」

米田 晃(よねだあきら)氏プロフィール

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1937年、岡山県に生まれ、幼少の頃から物理現象に興味を持ち探求、機械工学、電子工学を学び、1961年、(株)日立製作所に入社、36年間勤務、入社後25年間コンピュータ開発に従事、種々の体験を通して創造性開発の研究を始める。NM法の創始者中山正和氏に師事、禅の冥想、脳とコンピュータを対比した脳の働き、意識の研究をする中で、1982年頃、近代文明(機械文明)の高度な発達が地球環境を破壊し、生命滅亡の危機に至り、人間、社会を荒廃させると強いインスピレーションを受け、生命と人間の本質を研究、宇宙エネルギーと思われる気の研究、超常現象や見えない世界(意識、魂、波動、等)の研究、意識の変革を実践する為1987年、人間科学研究所を設立。仕事と両立しながら研究会、シンポジウムの開催、講演、他種々の活動を展開する。湯川秀樹博士夫人、湯川スミ氏と出会い、世界連邦運動に参加、ヨーロッパ、アメリカでの国際会議に出席、国際問題を考える会等を開催、世界連邦運動(WFM)理事も勤める。総合芸術、オペラを通して意識の向上、世界平和を願い国際的に活動している東京オペラ協会の活動に共鳴して、ヨーロッパ(バチカンでローマ法王にオペラを奉納)や中国へオペラ巡演スタッフとして参加。21世紀を境に、現代の西洋物質文明が崩壊して、人間が進化する新しい文明「21世紀弥勒のメタ文明」が生まれて来ることを予見して、1990年から、意識の覚醒を促す「覚醒ネットワークの集い」を開催している。ニューパラダイムテクノロジーの開発、普及支援、地球環境蘇生化活動にも力を入れ、多方面にネットワークを持ち多彩な活動をしている。

米田 晃 氏ご講演要旨

テーマ「苦難こそ人を成長させる!」

 人間が生まれて生きて行くことで自分ではどうすることも出来ない事が沢山起こる。これを一般には、運命と言って諦めたり、何とかしたいと占いや運命鑑定に走る人がいる。生まれた国、時代背景、両親や家庭環境等、選ぶことが出来ない生れ落ちた星の下を宿命と言うが、その人の人生は宿命や運命に影響されることが大きい事は確かである。お釈迦さんは、生まれてくることは苦であるとして、人生の「四苦八苦」から抜け出す方法(解脱、悟りの道)を説き、人々を導きました。人間は脳が高度に発達していて他の動物にはない考える働きがある。この働きは、人生を豊かに"いきいき生きる"ための創造する働きとして備わっているのです。ところが生まれてから成長(脳は20歳まで成長する)の過程で自我の意識が形成されてきて、身辺に起こる色々な状況に悩み苦しむことになる。この悩みや苦しみは、すべて自分の意識が創り出しているのです。「人は何のために生まれ、何処へ行くのか?」と多くの人が苦難を体験して考え、語られてきました。人間は、生まれてくるとき、この世での体験によって魂を磨き、向上させるために、母親を選んで、胎児に宿って生まれてくるのです。従ってそれから始まる人生には人や物、出来事など無常な関係(移り変わる身の周りの環境)の中で魂の願いを果たすべく無意識に選択がなされ意識では理解し難い状況(悩みや苦しみ等)が生じ運命を感じるように思われる。私は、これまでの色々な体験や学びから、運命は自ら変えることが出来ることを確信するようになった。子供の頃から物を作ったり考えたりするのが好きだったのと、趣味や仕事を通して創造性開発の研究をするようになり、人間の脳の構造、働き(意識や直観)について学び、瞑想や共時的な体験から身の周りに起こる問題や悩み、苦しみは全て自分(意識、潜在意識、無意識、超意識)が創り出している(意識が現象を創り出す)ことを実感するようになった。人間がこの世に“生まれて生きる"ことで、その人の魂が必要な学びをして向上するために、色々の苦難を自ら求めて体験するのです。「苦難こそ人を成長させる!」のです。

20年前、当時エレクトロニクスの最先端技術、コンピュータの開発に従事し、創造性開発の研究をしている中で、ある日強いインスピレーションによって高度な科学技術、機械文明(物質文明)がこのまま進めば地球、人類(人間はもとより地球生命)滅亡の危機に至ることを直観した。人間は脳が高度に発達していて、他の動物にない考える働き、創造する能力が備わってる。この考える働きによって、色々なものを創り出し、より便利で文化的な生活を求めて文化、文明を発展させて来た。ところが、そのことが人間が滅亡する方向に向わしめている。大きな矛盾を感じますが、人間が知性を持ち創造する能力が備わっていることは偶然ではなく、人間進化の必然の意図(宇宙の意志)があるものと思われる。従って、「高度な科学文明の進歩に見合う意識の向上、変革をして行かなくてはならない」との強い思いから1987年3月人間科学研究所を設立して会社(日立製作所)に勤務しながら、人間の本質、いのちの本質、生命を生かしている自然環境、見えない世界を合わせた新しい科学(ニューサイエンス、高次元科学)の研究を深めて来た。その過程で私自身様々な気づきがあり、これまで、好むと好まざるにかかわらず色々な体験をした(体験させられた)こと、学んだ(学ばされた)ことの私の人生は、魂の願いと何か見えない力(守護霊、指導霊か)に助けられ、導かれて来たことを感じている。このことは、人それぞれ境遇や体験が違っているものの、誰しも魂の願いと見えない力に導かれているのです。このことを理解して頂くために、私の生い立ちからこれまでに辿った人生の体験が、人が生まれて生きる"人生の意味を考える”参考になれば幸いです。

生い立ちと幼い頃のこと

私は、昭和12年9月19日に4人兄弟の次男として生まれた。父は、邑久郡鶴山村(現在の備前市)で農業を営む(父の祖父の時代から海路で各地へ出掛けて、栽培した果樹他農産物を卸し、日用品他、を仕入れて販売する商売も兼業していた)祖父の7人兄弟の次男として生まれた。祖父は私が生まれる前に亡くなったので、祖父のことはよく知らないが、教育熱心な親で、子供7人とも上級の学校へ行かせている。その当時は長男が家業の後を継ぐのが慣わしだったが、長男は東京帝国大学(今の東京大学)の法科を卒業して東京で弁護士になって家を出ていたので、父に家業を継ぐよう強要した。父は農業をするのが嫌で家を飛び出し、岡山県庁の職員になった。父は、学生時代(閑谷中学)に下宿していた家の娘と恋仲になっていて結婚しょうとしたが、祖父から反対された。ところが間もなくして、祖父が亡くなり、結婚することが出来て私達が生まれた。大人になってからその当時のことを色々母や叔母から聞いた。母と結婚当所は地方の支所に勤めていて、私は、新見市で生まれた。3歳の頃、本庁(岡山県庁)に勤めるようになり岡山市に越してきた。小学校に入学する頃、戦況が緊迫し、父が召集されて出征した。その後、連日のように空襲警報が鳴り、防空壕に避難することが多くなったので、祖父、祖母が亡くなって長く空家になっていた父の実家に母と兄弟で疎開した。それから間もなく岡山市が空襲を受けて焼け野原になり大勢の人が亡くなったが私達は命拾いした。しばらくして岡山に行ったとき、瓦礫の中で、親を亡くした多数の浮浪児を見て、幼いながら大変な衝撃を受けた。戦争中奇跡的に助かった話は多く、体験者が何か見えない力に助けられたと言っている。皆さんも偶然と思ったり、気づいていない場合があるものの、見えないカに守られ、導かれているでしょう。私の場合、父が戦争に行ってから境遇か一変した。それから体験した色々の災難、苦難は今の自分を形成するに必要な通るべく道(通らされ、導かれた道)だったことを反芻して、全て有り難く感謝している。幼稚園児の時、近所の年上の女の子と火遊びして、火の不始末から火災が起り、近所の板塀が燃えているところを大人が発見して、近隣の人達のバケツリレーで消し止め幸いにも大事に至らないで済んだ。小学1年の時、全校生徒で川へ水泳ぎに行き、人から離れて深みに嵌り、溺れているところを上級生に発見されて、先生に助けられた。その後も火と水の事故に遭い奇跡的に助かった。父が出征して田舎に疎開してからが大変だった。当時は国民学校で転校した学期、先生から級長を指名された。それが元だったのかボス率いる同級生達から大変ないじめに遭った。学校帰りに待ち伏せされて、嫌がらせや喧嘩を仕掛けられたりした。また、朝登校するとき、部落の集合場所に集まり、ギリギリまで遊んで、峠の上にある小学校まで、始業に間に合うように皆走って行く。体が小さくて、町で育った私は皆について行けず、何時も遅刻する。母に頼んで、先生に遅刻する訳を話して、部落の生徒(6年生〉に注意してもらったことがある。終戦になって間もなくして病気の父が着のみ着のままで帰って来た。戦争に行って病気になり、陸軍病院に入院していたが、終戦になって「病院で面倒見られないので重病で動けない者は仕方がないが、家に帰れる者は帰れ」と病院を追い出されてやっとの思いで帰って来た。それからは父が病床にあり、悪い時には枕元へ食事を運んだ。父が働けなかったので生活は困窮し、家で山羊を飼って学校から帰ったら山羊の餌にする草を刈りに行く。朝早く、母が山羊の乳を絞り、それを学校へ行く前、遠くの家々に自転車で配達する。配達中、時間的に登校してくる同級生に出会うのが嫌だった。また、色々と行商をして生活を助けた。そんなわけで、家に
閉じこもって好きな工作をしたり、川や池や海で魚捕りをしたりして一人で遊ぶようになった。このことも私の人生に大変有益だったと有り難く思っている。田舎の家に移り住んだ時、祖父母が亡くなった後農地が放置されていたので、当時の使用人や近所の人達が勝手に田畑(何町歩も有った)や農具などを使っていて(後に敗戦後の占領政策「農地改革」によって、不在地主としてほとんどの田畑を買収され彼らの所有となった)、戦後食料難で私達が菜園をしようにも土地がなくて、山を開墾して薩摩芋やじゃが芋、南瓜を栽培して自給した。

色々な災難に遭う

私が家でトンカチやったりゴソゴソしていると、父に「休まらない外で遊べ」と叱られ、いじめが待っている外へは行きたくないが、冒険好きだったので人目のつかない山や川、海に行き色々なこと(木の上に小屋を作ったり、落とし穴を掘ったり、罠を仕掛けたり、洞窟を探検したり、…)をして、自然の中で遊び、山菜や魚を捕って来て一家の食料を助け喜ばれた。よく川や山間の溜池に釣りに行っていたが、5年生のある日、溜池で釣りをしていて誤って池に落ちて溺れた。何時もは一人で行くことが多かったが、その時は兄と一緒に行っていたので、とっさに兄が飛び込んで助けてくれた。幸いにも兄が泳げたので助かったが、もしかしたら誰も居ない山間の池で死んでいたかも知れない。その後も中学1年の時、今度は海で溺れそうになったがその時は自力で助かった。それまでは水が恐くて泳げなかったが自力で助かったのが契機で泳げるようになった。溺れる時はもがけばもがく程体が沈む。これも恐怖によるこだわり(執着)で、意識、身体を開放することで体が水に浮く。このことは全ての問題解決の秘訣であり創造の原点に通ずる。成人して日立に入社する前、ある会社で揮発性の溶剤(二硫化炭素)を蒸留する釜の保全作業中に爆発事故に遭い、場合によっては吹き飛ばされるところが、炎に煽られ顔全面火傷を負った。幸い瞬間的な炎だったので顔面の皮が一皮剥けて後運症が残らず済んだ。また、その後、原料の硫黄をレトルト(木炭と硫黄を反応させる釜)へ硫黄を運ぶバケットコンベアーを点検していて起動スイッチを入れた直後、発火し易い硫黄の粉塵が充満しているダクトが爆発した。コンベアーダクトの上部が開いていたので爆風が吹き上げ、鉄板製のダクトが膨らんだが破裂しないで済んだので怪我はしなかった。この他にも色々と事故や災難に遭い、そのことは省略するが何回も火と水(カミ=神?)に係わる目に遭って、全て救われたことは私の人生に大きな意味を持っている。経済的に高校へは行かせられないと言われていた。特別に可愛がられた担任の先生(理科の先生で私が理科が得意だったので先生の助手になって理科の実験の準備、片付けなど手伝った。また、私が発起して中学に科学クラブを創って活動した)が家まで来て進学を勧めてくれた。教育には理解がある両親だったので、卒業したら会社に就職して家計を助けることで工業高校機械科に入学した(電気科に行きたかったが電気科のある学校が通学できる範囲に無かった)。父がずっと病床にあり、母も野良仕事などで日中家に居ないことが多かったので、両親には期待もされず、本当に自由に好きなことが出来たこと、自然の中で育ったことが自我の形成過程(大脳新皮質の発達)で色々の思いが抑圧されず(マイナスイメージが潜在意識に記憶されなくて〉あまり業(カルマ)を造らなくて幸いしたと思う。もし、父が元気で、ずっと岡山市に住んでいたら、幼稚園、小学校は名
門校に入っていたので、高校、大学とエリートコースを進むことになり、精神的にも負担を感じ、感性や創造性を高めることが出来ずまた、日立に入社してコンピューターを開発したり、大企業の中で人間を勉強することが無かったと思う。自由に好きなことが存分出来たことは、反面では我儘、協調性に欠ける性格が醸成され会社の組織に入って、人間関係に苦労したがこの苦労から人間について、自分について学ぶことが出来て段々性格が変わって来た。身の周りに起ることは偶然ではなく、その人に必要で必然に起って来る(魂の見えない世界で無意識に自ら縁を引き寄せる)ことをこれらの体験から学ぶことが出来た。この事は創造性の研究をしたり、人間科学研究所を創ったり、環境問題に取り組んだり、超科学の研究をしたりするようになった重要なプロセス(魂が願い、導かれた通り越し)だったと思われる。

魂の願い、見えない力の導き

以上の高校入学までのことからも、一見、宿命と思われる魂の願い、見えない力の導きがあることを感じる。後に反芻して感じた進学に関する魂の願い、見えない力の導きがあったように思う。私が電気の勉強がしたかったが実業高校の機械科に通っている事を知った赤穂の商家に嫁いでいる叔母(父の妹)から、姫路工業大学の付属高校に電気科があるので、そこへ転入すれば、そのまま大学へ進学出来るので、私を自宅に預かり学費を出してあげる、と言ってきた。その時は高校2年生だったが厚意を受けて転入試験を受けた。1年生への転入可との結果だった。電気科へ転入は1年留年になるし、家の事他色々考えてお世話になることを止めることにした。ところがその後、叔母の主人が脳溢血で倒れて急死してしまい、お世話になっていなくて良かった。昭和31年高校を卒業する時機械を勉強したのに、電気の仕事がしたくて中国電力の入社試験を受けたが、不合格になった。当時は大変な就職難だったので、仕方なしに、近くの株式会社クラレ〈当時倉敷レーヨン)の子会社(ビスコース人絹の溶剤に使用する二硫化炭素を製造するプラント工場)に入社、工作部で働いていて前記の火の事故に遭った。また、整備していた冷凍機の冷媒(アンモニア)が目に入り失明しかかったが完治した。高校の時から機械を勉強する傍ら自分で電気の勉強をして、ラジオや電蓄やテープレコーダーを作ったり、無線機を作ったりしていたので、給料の一部を貯めてテレビを作った。父が、寝ていてテレビが見られると喜んでくれた。その頃はテレビ放送が始まったばかりで村にテレビがある家は2軒(医者と造り酒屋)しか無かった。会社の幹部が何人もテレビを買ってくれてテレビの売上金が30万円貯まった。どうしても専門的な電気の勉強がしたくて、3年半勤めた会社を退職して、そのお金を資金にして東京へ出た。東京で間借りして、自炊し、色々アルバイトをしながら、電子工学の専門学校へ通った。専門学校では、特待生に推薦されて学費免除になったので大変助かった。東京には、叔母(父の一番下の妹)が毎日新聞社の編集部に勤めている夫と住んでいたので、時々遊びに行き世話になっていた。今度は、その叔母が、折角東京へ出て来て学校に行くなら大学へ行きなさい、学資は私が出してあげる、と言ってくれた。厚意は嬉しかったが高校を出てから4年も経っており、大学を受験するには何年か予備校に行かなければならないし、大学卒と言う肩書きを得ても就職時の年齢を考えると、専門学校でも独学すれば大学卒に負けない実力をつけて希望する仕事に就ける、と言って断った。ところがその後、またもや叔母の夫(編集次長で文屋と呼ばれ非常に不規則な生活をしていた)には肺結核が進行していて入院して間もなく亡くなった。その後叔母も結核に感染していて、当時6年生だった一人娘を残して亡くなった。父も私が専門学校を卒業して目立に就職した翌年、長い闘病の人生を終え永眠した。父を始め、私の大学行きに関係した人の不運との因果関係を考えるのはナンセンスかも知れないが、不思議なこの一連のことは無意識の直観の働き、魂の願い、私を大学に行かせないように見えない力の導きであったように感じられる。大学へ行かなかったことで学んだ事、得た事は計り知れない程大きい。皆、魂の願いがあって、守護霊、指導霊のサポートによって願いを叶えるべく、人生を歩んでいるのです。物事がうまく行っている時は、なかなかその事に気づけないが、自我の意識が魂の願いと異なる方向に向いて行くと、災難や病気など、苦しみを伴う事に出くわして、気づきのチャンスが与えられる。言い換えると、身辺に起きる災難や病気は気づきへのメッセ
ージであり、思い(意識)を変え、生き方を変えるために必要な有難いことなのです。専門学校を卒業する時には無線技術士の資格を取得していたので、アルバイト先の電気会社の工場長に見込まれて、兄が民放の放送局(広島にあったラジオ中国)の常務で、これからテレビ局を開局するので私に来て欲しいと、紹介され特別に兄の常務の面接を受けた。専門学校の先生からも教え子が、電子医療器の会社を創立したので行かないかと誘われたり、他に、色々就職先の紹介があった。放送局は条件が良かったので就職しょうと決めていたが、学校に掲示されていた(株)日立製作所コンピューター部門の求人票を見て興味を持った。その頃、コンピューターの事は殆ど知られていなくて、エレクトロニクス初物喰いの私も知らなかった。何か面白そうだし、将来性がありそうに感じ、惹かれるものがあった。「人問万事塞翁が馬」と言われるが、災難や願い、思いが叶わなかったことが、後になって良かったり、宝くじが当ったような嬉しい事や思いが叶った事が、後に良くない事、大変な事が起る事に繋がっていたりすることがよくある。このことは魂が自己(真我)の向上に必要とする事を招き寄せ、体験を通して学ぶ無意識の"魂の願い"による通り越しと言ってよい。自分にとって良い、悪い、嬉しい、悲しい事や、辛い、困難な事など、大脳新皮質の働き(脳の考える働き)によって自我意識が感じて、好ましい事は受け入れ、嫌なことは遠ざけよう(受け入れたくない)とすることから悩みや苦しみが起って来る。自分に起って来る事は全て必然で生じているので、あれこれ考えず、迷わず(考えることは迷い)素直に全てを受け入れることが魂の向上(魂の学び)にとって、ロスの無い効率的な生き方です。何故なら、魂が願って縁した(引き寄せ、遭遇した)事だからです。

2006年12月 1日

『いきいき創造の会』感動体験発表会第9回報告

開催日時 :2006年11月25日(土)13:30~16:30 
話題提供者:カンノ ミドリさん    ㈱ドリーム 代表取締役  みどり自然美容研究所
テーマ「スピリットエッセンスの波動測定によるヒーリングワーク」
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