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平成26年5月例会の報告

日時  : 5月14日 水曜日 18;30 ~ 20;30
テーマ : 日本近代国家成立の発端となった生麦事件 
場所  : 港区立商工会館
担当  : 石田 金次郎

生麦事件は一介の事件である。しかし、時代の流れの中で、この事件の持つ歴史的意義をしっかり捉えておく必要があると思い、吉村昭著の「生麦事件」、徳富蘇峰著の「維新への胎動(中)生麦事件」など再読した。また、生麦に生まれ、地元に資料館のないのはおかしいと発奮し、国内はもとよりオランダなどに渡り、古文書、錦絵、日記など千点余を集め、歴史を後世に伝えるために「生麦事件参考館」を建てた、館長浅海武夫氏のお話をお聞きし、一層生麦事件の理解を深めることができた。
 生麦事件は、文久2年に起きた事件であるが、嘉永6年(1853)にペリーの黒船が来航して外国と和親条約・修好条約を結んで開国した結果、生糸、蚕種、茶の輸出が急速に伸び、文久2年の日本からの輸出品の86%が生糸や蚕種が占めたと言われている。ヨーロッパの生糸の生産地であるフランスやイタリアが蚕の病気が大流行したこと、中国は太平天国の乱で輸出がふるわなくなって、日本への期待が高まった為である。この結果、国内からも海外からも製糸場建設のニーズが高まり、薩摩藩や長州藩も紡績の機械や技術の導入につながっている。生麦事件に生糸輸出商や生糸検査員が出てくるのはこの時代背景を考えれば理解できる。
 6月に世界遺産の指定される富岡製糸場は、フランスの技術をとりいれて建設されたもので、開国により日本が世界経済に組み込まれていった世界産業遺産なのである。正に日本近代化の明治維新を語る時に、生麦事件を語らずには通れないのである。
 浅海館長によれば、歴史教科書には曽ては生麦事件は一行の扱いでしかなかったが、今は1ページを割いて説明されているとのこと。産業においてもその歴史的意義は重いものがあるといえる。

(生麦事件)
生麦事件は、文久2年(1863)8月21日に東海道生麦村((現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で起きた事件である。江戸から薩摩に帰国しようとしていた島津久光の行列に、馬に乗ったイギリス人の4人が行列を乱したとして薩摩藩士に無礼打ち、殺傷された事件である。安政6年(1859)に神奈川・長崎・函館の開港に踏み切って三年目である。
 横浜の居留地で生糸の輸出商を営んでいたウイリアム・マーシャル、ハード商会の生糸検査員のチャールズ・クラークと香港在住でマーシャルの従姉妹の観光に来ていたボロデール夫人、と上海で商売をしてイギリスへ帰国する前にやはり観光に来ていたレノックス・リチャードソンの4人である。
 4人は、川崎大師辺り乗馬観光の途中久光の行列に遭遇し、日本のしきたりに無知であったために起きた事件である。
 これが、幕府とイギリスの外交問題となり、イギリスの代理公使ニールは、幕府に対して、謝罪書の提出、10万ポンドの賠償金の支払い、薩摩に対しては、殺傷させた薩摩藩士を捕らえ、イギリス海軍士官の前で首をはねること、殺傷された親族に対する賠償金2万5千ポンドを要求した。

(時代背景)
 徳川幕府は17世紀半ばから、海外との交流、貿易を制限しており、18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア・イギリス・アメリカ合衆国などの艦船が日本に来航し、薪や水の供給や開国を要求があったが、鎖国・海禁政策を維持していた。
 が、この制限の中、長崎出島ではオランダや中国には、オランダ船が入港するたびにオランダ風説書などで情報を得ており、ポルトガルやスペインだけでなく、他のヨーロッパ諸国、インド、清などの情報も記載されていた。
1840年イギリスは清朝に対してアヘン戦争を仕掛け、1842年には南京条約で、清朝は多額の賠償金の支払い、香港の割譲と、翌年には治外法権、関税自主権の放棄など極めて不平等な条約を結ばされた。清朝の敗戦は清の商人によっていち早く幕末の日本にも伝えられ、強国であった清の敗北は西欧列強の東洋への進出として我が国にも大きな衝撃を与えた。
嘉永6年(1953)にアメリカ合衆国のペリー提督が、浦賀沖に黒船4隻を率いて、江戸幕府に開国を迫る大統領国書を携えて来航し、1854年には日米和親条約、1858年には日米修好通商条約など結ばれた。が、徳川幕府は周章狼狽し、朝野をあげてその対応に奔走した。
正に川柳にもある、「太平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船) たった四杯(隻)で 夜も寝られず」で、時代が大きく動き出していた。
日米修好通商条約を結ぶ段では、孝明天皇や岩倉具視ら公家は外国人の国内居住や開港に反対した。大老井伊直弼は、領事裁判権を認め、関税自主権を有さない不平等条約に朝廷の勅許が得られないまま、強権的方法で締結した。その抵抗勢力に対して政治的弾圧(安政の大獄)を加え、それに憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士は桜田門外で井伊を暗殺した。(桜田門外ノ変)
 経済の面では、開国・貿易開始以降、金銀比価の問題から、金貨が大量に流失し天保小判から万延小判の発行で混乱を招いたこと、生糸が主力輸出商品と成り、物価の高騰を招いた事で、開国策への批判が噴出、外国人排斥の攘夷思想が高まり、各地で異人切りが横行するようになった。そして、国学思想から来る尊皇思想と結びついて「尊皇攘夷」運動として幕府批判につながっていった。不穏な社会情勢であった。
一方、弱体化した幕府の権力を復活させるため、公武合体を幕府や朝廷が模索していた。薩摩藩の亡き前藩主島津斉彬は幕政を改革して朝廷の権力を拡大し朝廷を中心にした公武合体こそ最も望ましい政治形態であると主張し、その弟である島津久光はその考えに同調し、朝廷に働きかけるべく兵を率いて京に上がり、大原重徳勅使に同道して、江戸に向かい、朝廷権威の強化、幕政の改革(徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職など)、公武合体の必要性を幕府に認めさせた。生麦事件は、この帰途の事である。
生麦事件の処理を巡って、幕府・薩摩・イギリスの間で交渉が進められた。幕府・イギリスの間は、以前の東禅寺事件の賠償金も含めて11万ポンドを支払いでほぼ決着をみたが、イギリス・薩摩は殺傷の下手人問題と賠償金問題未決着で戦争に及んだ。文久3年(1864)7月2日から7月4日まで薩摩とイギリス艦隊7隻との間で暴風雨の中、戦闘が行われた。結果は、薩摩藩の戦死者は6名、重傷者7名と台場と家屋が灰燼に帰した。イギリス艦隊の方は旗艦「ユーリアラス号」館長以下約60名戦死、艦も損傷を受けた。しかし、久光は家老・側用人を招いて、この戦いに関して意見を求めたところ、「藩は西欧の兵術に従って、操練を繰り返してきたが、武器と技術に天と地の差がある」ことを実感し、攘夷が現実から遠くかけ離れた愚劣きわまりない空論と受け止め、藩論は攘夷一色から開国に転換した。イギリスとの和議を進め、更に進んで、軍艦購入の斡旋や密かに留学生と称して視察団を派遣し、紡績機や鉱石発掘機なども依頼するなど、親密な関係を築き、新政府樹立の中心的役割を果たしていった。

(攘夷の実行と禁門の変)
 一方、過激な攘夷実行を唱えていた長州藩は、急進派の公家を動かし将軍慶喜には「文久3年5月10日に攘夷実行」を奏答させ、各藩にお触れを出した。これを以て長州藩は攘夷実行のため、下関において米・仏・蘭の商船に砲撃を加えた。
 京都においては8月13日に長州藩と朝廷の少壮公家が攘夷新征を決めるも、8月18日には公武合体派公家、薩摩藩、会津藩等が巻き返し、攘夷新征派を御所から閉め出す。これに反発した長州藩は、朝廷の退去命令を無視して蛤門を破って進入した。いわゆる禁門の変である。これによって長州藩は朝敵と成り、幕府に長州藩追討の命が下る。

(外国艦隊下関砲撃事件)
長州藩が商船に対して砲撃を加えたことに対して、元治元年(1864)に英・米・蘭・仏の連合艦隊は長州藩の不法行為を懲罰するため下関を砲撃し、敗戦に追い込んだ。長州藩は連合艦隊の戦力が計り知れないほど強大であると実感し、薩摩藩同様、攘夷から開国に転換し、講和条約を結んで、西洋の文明の利器など伝授を要望した。和議に当たっては、連合国から3百万ポンドの賠償金を要求され、長州藩は幕命であるとして逃れ、幕府が呑まされる。

(長州征討と薩長同盟そして薩長同盟と王政復古)
朝廷より長州藩の征討命令で征長総督に徳川慶勝が任ぜられたが、総参謀西郷隆盛は長州藩を恭順させて関係者の切腹処分、藩主の謝罪書など穏便な解決を独断。幕府は激怒し、幕府の威信回復のため第二次長州征討令を慶応元年(1865)に計るが、薩摩藩は公武合体から倒幕に姿勢を変化させ、坂本龍馬の音頭で薩長同盟を結び、長州藩の近代兵器調達を支援し、慶応2年(1866)に戦端が開かれた第二次長州征討は慶応3年(1867)には幕府は敗北し、幕府は朝廷に10月14日大政奉還するも、同日、朝廷は薩摩藩・長州藩に倒幕の勅書を出し、慶応3年(1867)天皇は幕府の廃絶、慶喜の将軍職の辞任、領地の返納の王政復古の大号令を出し、慶応4年(1868)には五箇条のご誓文を公布し、日本の近代国家成立の明治政府の天皇親政体制が進むことになる。

(歴史から学ぶこと)
1853年のペリーの来航から1868年の明治新政府成立。この15年で、徳川300年と言われた幕府が崩壊した。生麦事件は、徳川幕府崩壊・明治新政府誕生の助産婦というか、時代が孕んでいた膿を一気に出させる針のような役割だったように思う。五箇条のご誓文には、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」、「上下心を一つにし盛んに経綸を行うべし」、「官武一途庶民に至るまで各志を遂げ人心をしてうまさらしめん事を要す」、「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」、「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」と歌われている。時代を破壊し新しい時代を作るには若い人々の猛烈なエネルギーを感じる。少子化・人口減少・多くの若者の非正規労働など寂しい事態が目の前にあるが、自分たちが良ければという甘えで、まだ重大性に気づかず、本気になって取り組めていないと感じる昨今である。

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