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令和1年7月例会報告

日時  : 7月11日 木曜日 18;30 ~ 21;00
テーマ :城野先生のDVD「東西古今人間学」の鑑賞会 第6回目
場所  : 港区立商工会館
参加費 : 1000円
司会  : 古川 彰久

DVD「東西古今人間学」第2巻第3回後半要旨
次に日本から中国大陸に渡り、三国志の人間学を赤壁の戦いを題材にして見てみよう。
  漢の末期に農民暴動、黄巾の乱がおこり、これを鎮圧するために募った義勇軍が地方のボスとなり、河北の袁紹、寿春の袁術、徐州の呂布、長安の董卓、荊州の劉表、蜀の劉璋、それに呉の孫権、魏の曹操、蜀の劉備などが天下を争い、群雄割拠の状態となった。
 この中で、曹操は北方を制し、皇帝を擁護して、その宰相つまり総理大臣という立場にたって、漢への謀反人どもをやっつけるということで天下を統一しようという総戦略であった。
 漢の末裔を任ずる劉備玄徳は、関羽、張飛と義兄弟の契りを結び、兵をあげ、徐州一帯の城主となり、曹操と対立する。その後、荊州の劉表のもとに身を寄せる。ここで劉備は司馬徽という人物に出会い、自らの志を遂げるためには、「謀りを帷幄にめぐらし、勝ちを千里の外に決すというような人物」が必要だと言われ、その人物を探すことになる。
 そこで、諸葛孔明の存在を知り、三顧の礼をもって諸葛孔明を迎える。そして劉備は諸葛孔明の天下三分の謀り(北は天の時を曹操に譲り、南は地の利を孫権に譲り、君は人の和を取って荊州を根拠地とし、沃野千里天賦の地、西蜀を取る。)を総戦略とした。
 江南の地、長江の南を孫氏が、孫堅、孫策、孫権と三代にわたり治めてきている。従い非常に基盤が固い。孫権の総参謀長魯粛は大変なしっかり者で、この人が呉の総戦略を立てる。それは帝業をはかれというもの。北の方へ出て天下統一なんて考えるな。江南の地を守り、そこで皇帝の位につけばいいというものです。
 このような総戦略が三つあったわけです。この総戦略が衝突するということは、曹操は他の二つをやっつけようとするし、あとの二人はやっつけられまいとすることになります。要するに戦略的対立になった。
 魏の曹操が百万の軍勢で南下し、荊州を下し、劉備は五万そこそこで江陵まで逃げた。曹操は更に南進を目指す。
 揚子江の南は、呉の孫権が統治しているが、その軍勢15万人程度で、曹操の軍勢100万人を迎えて、戦うのか、降参するのか、国論が2分していた。
  呉の参謀総長魯粛が軍師として、江陵に逃げてきた劉備を訪れた。これを受け劉備は孔明を呉に派遣する。この時孔明は27歳であった。
  孔明は呉に赴き孫権に会う。その容貌を見て孫権はなかなかの人物だなと思い、「この男説くべからず、激すべし」という戦術的策定ができた。ただ、戦術は固定してはいけない。固定すると失敗する。つまり、戦術は縦横無尽、自由自在であって、状況の変化に応じて変えていくだけの見識、頭の柔らかさを持っていないと戦術策定はできません。
 孫権は孔明に、今曹操から降参を迫る脅迫状が来ているとして、孔明の意見を求める。孔明は「貴方は降参された方が一番いいです」と答える。孫権は「あなたは私に降参を勧めておいて、何故主君劉備には勧めないのか」と問い返す。孔明は「それは問題が違います。主人劉備は漢の皇室の一族にして天下の英雄である。曹操ごときに膝を屈して仕えるなどできるものではない」という。孫権はカッときて、何をいうか!と怒り、奥へ入ってしまった。
 同盟をして曹操と戦おうとして孔明を連れてきた魯粛はびっくりして孔明をなじると、孔明は「あの方はまだ本当のことを聞いていない。私に聞いたのはどうしたらいいかということだ。そう聞かれれば一番安全な方がいいと答えることになる。戦争をすれば負けるか勝つか分かりません。負けたら全滅ですからこれは危ない。孫権さんは戦うという決心つまり戦略的決定ができていない。戦略の決定は最高司令官である君主にしかできない。それをしないで人にどうしたらいいのかと聞いても無駄です。」と弁じ、更に、「もし孫権さんが曹操と戦う決心をして、あれをやっつけたいが方法があるかと聞かれれば、そういう戦術的な問題ならばいくらでも策を出すことができます。戦術についてならいくらでも意見を出すが戦略を私が決めるわけにはいきません。それを人に聞くなどという腹の小さいことじゃ話にならない」といった。
 魯粛が孫権に孔明の意見を伝え、孫権も理解し、あらためて話を聞こうと孔明を奥に迎え入れ、「孔明先生、私は曹操をやっつけたいと思う。どうすればよいのか教えていただきたい」といった。それに対し孔明は次のように答えた。「そういうご決心なら方法はいくらでもあります。曹操が兵隊を百万連れているといいますが、あれは陸兵です。しかも本来の曹操の兵隊はおよそ二十万。その他は袁紹を平らげて約二十万か三十万の降参兵を集め、袁術を平らげて約二十万、劉表を平らげてやはり三十万ぐらいの降参兵を集めたいわば烏合の衆である。孫権軍と劉表軍が同盟すれば兵力としては同じくらいになる。そのうえ曹操軍は北の方で馬にのって走り回っていた兵隊だ。この度は赤壁に陣を取ったがそこから呉を攻めるには船に乗って来なければならない。戦いは水戦になり大海戦となるだろう。我が同盟軍は長江に沿って編成され訓練されてきた水軍が中心である。長江という海のような川を舞台に、陸軍部隊と海軍部隊が洋上での海戦をすればどちらが勝つかは火を見るより明らかだ。だから何も恐れることはない。また敵の兵隊百万はいわばゴクツブシのようなものだ。つまりそれだけの食糧の補給が大変で長くは戦えない。そのうち乱れてくるでしょう。しかも北の方に生活していた人間が江南の雨の多い所へ来たのだから、風土に服せずで必ず多くの病人が出てきて戦闘意欲が失われていく。北の国からここまで一気呵成に駆けてきているのだから、強弩の末勢、絽縞も穿つ能わず。強い弓で矢を射て遠くまで届いたとしても、もうヘナヘナになって薄い布地すら通らなくなってしまうくらいヘトヘトになっている。曹操軍をなにも恐れることはない。やっつけてしまいなさい」
孫権はそれを聞いて納得し、それなら勝てるという気になった。
 軍の司令官、周瑜に対しても、説くよりも激すべしで、曹操が江南に求めているのは、大喬(孫策の妻)、小喬(周瑜の妻)の姉妹だと、銅雀台の賦を引用して周瑜を怒らせる。
 かくて孔明は孫権と周瑜をともに主戦論にもっていき、ここに2国同盟が成立し、諸葛孔明が目指す3国鼎立、天下3分の計が進展する。
  このように戦略は大胆に決め、戦術は細心に取り進めることが大切です。
(1) 人間の脳の構造からして、古代の人間と現代の人間に違いがない。人間と人間の関係、人間と人間の関わり合いは、古代の人達も現代の人達もほとんど差のない反応をみせたに違いない。人と人との関係が人生であり、そして仕事でもある。
(2) 歴史上の人物達が人間の行動学を実際に示してくれている。我々にとって古代の人達が取った行動、活動というのは大いに参考になる。
(3) 戦略は大胆に、戦術は細心にといっている。戦略を決めたら、戦術は多種多様にあると。

参加者での意見交換
1.諸葛孔明について
この時、27歳とのことであるが、これだけの力をいつどのように形成できたのか、知りたい。
2.三国志について
三国志には正史の三国志と、後にまとめられた三国志演義とがあるそうですが、今回の話は講談風で非常に流れがよいが、どこまでが史実なのか気になります。

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