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令和4年4月例会報告

令和4年4月例会報告

日時  :4月14日 木曜日 18;30 ~ 20;30

テーマ : 城野先生の「情況判断の行動学」 の第二章「脳活用の東西比較」の前半

場所  : 港区立産業振興センター
       10階 会議室3

演者  : 鵜殿 博文

今回は、日本人の脳反応の特殊性に関しての項目でした。その脳反応を理解するために他の国の文化の違いからそれを勉強しました。人間の脳の作用の二つの選択肢からなっている。一つは自分で変えていく。もう一つは人にしてもらう。特にユダヤ教やイスラム教は多数の民族との抗争が多かったため戒律が厳しい宗教でありました。そのため、戒律を守るものが仲間で守らないものは敵であると区分していました。そのように敵味方の区別を作り集団を作ることで宗教が発生しました。

住居に関しては牧畜を主としてた地域では、他を受け入れない家族単位では生活をしていたのに対して、日本は農耕社会であったため、個人ではなく集団で生活する協同体ができあがっていた。

そのような状況があり日本では中央集権が確立した頃に日本には仏教が入ってきました。その頃は蘇我氏が争いに勝つために仏教を利用してと言われていました。日本の中央集権は地方自治の上に成り立っていたため、西洋から見ると非常に惰弱した政権と思われていました。

日本は明治以前に外国と接触したのは元の襲来と秀吉の朝鮮出兵の2回だけであった。中近東やヨーロッパと比べてかなり少ないです。
明治維新後に日本が欧米の知識を吸収し、近代国家の建設を行い成長してきました。また第二次世界大戦では焼土化したが、給食に立ち直りました。それは日本人が単に「勤勉である」とかエコノミック・アニマルであるというだけでは理解できない。それは日本人が数千年来、組織的社会活動に習慣してきた。日本人が勤勉で協力して生きるという習慣から出来上がった脳反応により成し遂げたものといえます。

日本人の脳反応の特殊性は言語の構成にも現れています。英語は"I want to give him book"のように所有関係の移動をハッキリと表現しています。ヨーロッパの言語も同じような感じです。日本語の場合は「本をやろう」という言葉で終わってしまう。「私の本」・「彼に」などの所有関係は現れてこない。これはどちらが良いということではなく捉え方の違いだけでです。これはヨーロッパ等の国々は個人の所有を強調する文化であるために出来たことと言えます。逆に日本は皆が強調する。社会を組織をという感覚が強いため、個人を主張しない構成になったといえます。

日本人の教育は千年余り昔から一部の貴族だけではなく、庶民にまで及んでいました。ヨーロッパでは庶民は文字が読めなかったため、ラッパで人を集める。役人が布告を読んで聞かすという状態でした。明治の日本が徳川時代から受け継いだ遺産は文字が読める民衆の社会であったとえいる。そのため日本ではヨーロッパの技術を持ち込んで、早くその技術を根付かせることが出来ました。

組織社会とは、ヨーロッパ流の一人の命令に盲目服従というのではない。組織の戦略目標がはっきりすると各人がその目標を達成するための自分の役割を判断して動くことです。日本では太古から地方自治を核心として政治が運営されてきたので、そのような教育の基礎ができた組織社会を営まれてきました。最近では日本人とヨーロッパの人の大脳の置き方が右と左が客になっているという意見がありますが、粗言う事ではなく脳の作用や反応の差異は社会活動の中に表現されて出来上がったものが大きいといえます。

脳の活用に関して今回は学びました。このような事を深く考えたことがなかったのでとても難しい内容でしたが、自分が生きてきた環境だけではなく、脳の反応は人類が誕生してから過ごしてきた生き方を受け継いで出来上がったものであるとわかりました。

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