« 5月例会 報告 | メイン | 7月例会 報告 »

6月例会 報告

日時  : 6月9日  水曜日
      18:30 ~ 20:30
場所  : 港区立商工会館

テーマ : 「私と城野先生の出会い」
担当  : I.T.

去る6月9日、例会の中で『私と城野先生の出会い』というテーマでお話しさせて頂きました。この場を借りて、当日話した内容の中心点を整理させて頂きます。

城野先生の著書との出会い
私が始めて城野先生の名前を知ったのは、今から10年ほど前の話です。その頃に読んでいた武術雑誌の中で、遠藤英夫先生(日本護身道協会会長)が対談をされていました。その中で先生は護身道の特徴と共に創始者である城野先生の半生についても話されていました。

遠藤先生は、城野先生が元軍人であり終戦後に中国に残留し、軍隊を率いて毛沢東と戦ったことその対談の中で語られました。そんなスケールの大きいことをする日本人がいたことに驚きましたが、当時の私にとっては、城野先生は武術の創始者としてのイメージが強く残ったのを覚えています。

それから7~8年ほどたち、その当時の勤務先企業において、私は自分が担当していた業務から突然外されることになり、半ば窓際族のような立場に立たされました。

担当業務から外れる前は猫の手も借りたいくらいに忙しかったですが、その反面、毎日が充実していました。しかしいきなり何も仕事がない状態になってしまったのです。むなしい気持ちを紛らわそうとしていろいろな本を読みましたが、自分の気持ちにフィットする本は中々見つかりませんでした。そんな時ふっと、城野宏先生の名前が頭に浮かびました。試しにインターネットで城野宏をキーワードにして検索すると、あるサイトがヒットし、その中で『獄中の人間学』(致知出版社)における、城野先生と古海忠之氏の対談が紹介されていたのです。

その対談の中で、城野先生が毛沢東との戦争で敗戦し、身柄を拘束され、一時は銃殺刑の一歩手前まで行ったことを話されていました。そんな極限状態まで追い詰められたことに驚きましたが、その出来事を古海氏にどこか懐かしそうに話す城野先生に対して、非常に興味を持ちました。

歴史本を読む
城野先生に興味を持った私は、通販を利用し、購入できる限りの先生の著書を入手しました。それらの著書を読んで気がついたことは、先生が歴史上の人物の逸話を頻繁に紹介していることです。先生はその著書『東西古今人間学』(不昧堂出版)の中で、歴史を学ぶことのメリットについて、以下のように語られています。

『人間の行動は、科学や物理学みたいに実験できないんです。ところが古代の人達は実験してくれているんです。歴史上の人物達が人間の行動学を実際に示してくれているんです。古代人も現代人も脳の反応は同質なのですから、我々にとって古代の人達の取った行動、活動というのは大いに参考になるんじゃないかと思うんです』

城野先生の著書には古今東西の様々な歴史上の人物が紹介されていますが、面白いと感じたのは、単にその人物の半生を紹介するのではなく、その人の成功と失敗を、その人が抱えている内因と、その当時の時代背景が作る外因とを織り交ぜて考察し、現代社会でも通用する普遍性を抽出している点です。

先生の著書に触れてから、私は中国の三国志に興味を持ち情報を集め始めたのですが、DVD『三国演義』(中国中央電視台製作)に面白いエピソードがあるので、紹介します。

赤壁の戦いを目前に控えた呉の国。呉の国にオブザーバーとして滞在している諸葛孔明に、主君・劉備が関羽を連れて陣中見舞いに訪れます。かねてより孔明の優秀さに恐れをなした周瑜は、これをチャンスと考え劉備もろとも孔明を暗殺しようと企てます。そして手始めに、訪問歓迎の宴の席で劉備を暗殺しようと準備を整えます。

周瑜が劉備を暗殺すると予測していた孔明は、その宴の席を遠くからこっそりと見守ります。周瑜は物陰に潜んでいる忍びの者に対して、劉備殺害の合図を送る機会をうかがいます。しかし護衛として劉備の側に付いている関羽は不穏な空気を察知し、腰の刀に手をつけ、周瑜に対して凄まじい殺気を放ちます。その殺気に圧倒された周瑜はついに劉備の殺害を諦めるのです。

物陰から見守っていた孔明は、周瑜が殺害をあきらめたことを確かめると、宴の席が終わった後、何事もなかったかのように振る舞い、劉備と関羽を見送るのです。しかし普通に考えれば自分の主君を亡き者にしようと企んだ周瑜は、孔明にとって許し難いやつであり、無かったことにできる話ではないでしょう。しかし孔明は孫権に対してこのことを告発しませんでした。

孔明にしてみれば周瑜による暗殺計画を告発し、彼のキャリアを破滅に導くことなどたやすいことだったでしょう。しかし劉備は呉の国をすでに去り、再び命を狙われる恐れはない。そして赤壁での決戦を目前に控え、呉の国の軍隊を一つにまとめて曹操と対決できるのは周瑜をおいて他にいないと孔明は考えたのではないでしょうか。『天下三分の謀』を実現し、劉備を守っていくためには、呉との同盟を強固にするしかない。だから劉備の暗殺さへ企てなければ、周瑜追放につながることをするのは自殺行為だと考えたのではないか。

もし我々現代人がこのときの孔明のような立場に置かれたら、自分に与えられた責任の重さを感じて嘆き悲しむのではないか。そしてこれくらい深く考えを巡らせて初めて、職場で『私は仕事をしました』と言うことができるのかも知れません。

私は長い間、歴史関係の本を読むことがあまり得意ではなく、しばらくの間避けていました。それは頭のどこかで『歴史の本など読んで、一体何の役に立つのか?』という気持ちがあったからです。担当業務から外されて隙になったからこそ、思い切って読み始めたわけで、今になってみれば悪い経験ではなかったと思います。

できないことはしない、できることをする
城野先生の著書を読み、歴史を通じて、人間心理の普遍的働きについて知ることの重要性に気づきました。しかし先生の本を通じてもう一つ目から鱗の体験をしたことがあります。それは先生の言葉『できないことはしない、できることをする』です。先生はまた『難しいことは後回しにしろ』とも言っています。この言葉だけを聞くとただのスローガンでは?と思ってしまうかも知れません。しかし前述の著書『東西古今人間学』の中で先生は、国民党との戦いを通じて毛沢東がこらしてきた工夫をいくつも紹介されています。

毛沢東は共産党の結党以来、実に28年かけて中国全土を統一したのです。普通の人間であれば、それがどれだけ意義深い目標であったとしても、28年も掛かればあきらめてしまうのではないでしょうか。

その当時、共産党軍は国民党の軍隊に比べて、兵士の数や武器の質、また資金力などの面で圧倒的に劣勢でした。しかし毛沢東はそこで悲観的にならず、知恵で劣っている面をカバーしたのです。例えば、敵の軍隊に対して決して正面から攻撃しない、敵の部隊を分散させ、小部隊に分かれるまで待つ。それまでの間に味方の  部隊を密かに集結させ、敵が小部隊に分かれるところを見計らって一気に攻撃する。こうすることで味方の損耗を最小限に抑えたのです。こうやって敵の軍隊が降伏すると、持っていた武器や通信機、食料などを全て取り上げ、自分たちの軍の装備をただで充実させました。

後半は、武器の質や兵士の数において国民党軍との差が小さくなり、敵と正面から激突することが増えてきたが、まだ戦力において差が大きかった前半は、無理をせずあくまで遊撃戦を主体としたようです。別の言い方をすると、今、手持ちの材料でも勝てる条件を揃えるまでは戦いは避け、いざ勝てる条件がそろったら一気に攻撃に転ずると言うことです。毛沢東は仲間内でもいくさ上手と思われていたに違いありませんが、それでも勝てる可能性が低いのに、敵軍に対して強引に攻撃を仕掛けるようなことはしなかったのです。そう考えると、戦いに勝つと言うことは実は、勝てるだけの条件を揃えることが仕事の大半であり、条件が揃った後に実際に攻撃を仕掛けることは、全体の中ではほんの僅かな仕事でしかないのかも知れません。そして仕事ができる人というのは実は、揃っていなかった条件を揃えることができる人と言うことであり、そうした人たちにとっては、条件が整っていない恵まれない環境とは、まさに腕の見せ所と言うべきシチュエーションなのかも知れません。

今自分が望むことは、会での活動を通じて古の人たちの知恵に触れ、自分の人生を木の視点ではなく森の視点から眺め、ピンチに陥っても飄々と毎日を過ごせるようになることです。

以上

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)