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平成24年9月例会の報告

日時  : 9月12日  水曜日
      18:30 ~ 21:00
場所  : 港区立商工会館
テーマ :「日本のロケットの開発の幕開け」
担当  :石田 金次郎

(概要)    
戦前、世界有数の軍用機メーカーとして、日本には三菱重工と中島飛行機の両雄があり、零戦や隼などの名機を生み出していました。その中島飛行機の東京工場では、軍用機のエンジンの設計・製造をしていました。終戦後は財閥解体の指定を受け、富士精密工業株式会社(以下富士精密)と社名を変え、自動車の事業に転進してゆきました。
 元航空技術者を多く擁する優れた技術を持つ富士精密は、日本ロケット開発の父と言われる糸川博士との縁で、東京大学生産技術研究所(以下東大生研)と一緒になって、小さなペンシルロケットから開発に取り組み、そのロケット技術は、日本独自の固体燃料ロケットの「はやぶさ」を運んだM-Vロケットに実を結び、液体燃料ロケットでは、米国から技術移転したNロケットや純国産技術の液体燃料ロケットのHⅡロケットまで成長して、日本の航空宇宙産業は世界の航空宇宙産業一角を占めるに至っております。
 この日本ロケットの幕開けは、中島飛行機が育んできた優れた人材・産業技術力の成果を語るものであると同時に、東大生研の専門家等を結集した総合技術開発体制の、組織工学手法の素晴らしい成果を示す物語でもあります。
 富士精密のロケット技術は、その後、プリンス自動車、日産自動車との合併を経て、1998年には群馬県富岡にあるIHIエアロスペースに引き継がれています。
(糸川英夫博士のプロフィール)
今年は、糸川英夫博士(1912年生―1999年没)の生誕100年にあたります。糸川英夫は、東京西麻布に生まれ、一高・東大を経て、中島飛行機に入社し、飛行機の機体設計に携わり、一式戦闘機「隼」等を開発しました。戦時の技術者養成の観点から、1942年には中島飛行機を退社し、東大第二工学部の航空機体の助教授として戻りますが、ポツダム宣言受諾により、航空機関系の研究開発は禁止されてしまいました。
糸川氏は音響工学の担当教授に転進し、1952年にシカゴ大学から招かれ渡米しましたが、図書館で「宇宙医学」の本に接し、宇宙の時代を予感し、滞在期間を繰り上げ1953年5月に帰国しました。
(糸川氏のロケット構想)
糸川氏は、日本が敗戦以来、科学技術や産業に於いて欧米諸国に著しい立ち後れをしているし、航空部門、電子工学の部門において、欧米の後を追うのでは永久に後塵を拝するにおわる。立ち後れを取り戻すために、欧米の技術を研究するとともに、欧米の行われていない分野の将来性に対し積極的に研究し、進んで世界の技術の第一線に立つことが必要であるとの認識から、ジェット技術ではなく、ロケット技術で、新しい分野を開拓することが、日本の産業技術に資すると同時に世界文化に寄与するのであるとの決意を持って、「ロケット旅客機」の基本構想に練り上げました。
糸川氏は、滞米中にアメリカの自動車産業や航空機産業の研究開発を見て、優れた組織的な取り組み方…組織工学的手法…を学び、日本のロケット旅客機開発に当たっては、ロケットの機体開発の企業の探索とロケット開発に必要な周辺技術開発の推進体制を構想しました。
具体的には、ロケットの機体開発は、富士精密工業にお願いし、周辺技術開発は東大生研を中心に航空工学、電子工学、空気力学、飛行力学等の専門家で組織(AVSA研究班)して、この両輪で、ロケット開発を進めたのです。
(AVSA=Avionics and Supersonic Aerodynamics)
(富士精密・荻窪とロケット開発)
1953年10月3日、糸川氏は、経団連主催でロケットについての講演会を開き、米国のロケット開発の近況、固体燃料ロケットと液体燃料ロケット、誘導方式などの側面から紹介し、協力者を求めました。が、不調に終わり、富士精密工業(株)(以下富士精密)に協力要請をしました。
 富士精密は、同じ中島飛行機の仲間であったことで、糸川氏の要請を受諾しました。富士精密の中川良一取締役は,中島飛行機時代、飛行機の『誉』エンジンなどの開発で活躍し,糸川氏とは旧制高校同窓であったこともよい縁でした。
 富士精密は、1953年に設計課に入った新人の垣見恒男氏を専任担当として決め、翌年から研究会等も発足し、10名ほどで、開発に取り掛かりました。
 1954年、ロケットの推進薬は、通産省の指導と火薬協会の協力のもとで,日本油脂から、無煙火薬の推進薬数十本の提供を頂きました。サイズは外径9.5mm、内径2mm、長さ123mmのマカロニ状のバズーカ砲の残材であります。アメリカ軍が朝鮮戦争の際に使用していたものです。
 飛翔体材料は、中島飛行機時代の航空機材料残材のジュラルミンの丸棒です。(地上燃焼試験用はクロームモリブデン鋼)。1954年10月13日戦後初の燃焼テストを始め、条件を変えて10数発を10月末までに実施し、エンジン性能を確認し、翌年2月にはペンシルエンジンを完成させました。 
かくして、日本油脂の推進薬とエンジンを使った機体の基本形が出来上がり、先端部をスチール、真鍮、ジュラルミンの3種に変えることによって重心位置の変化を持たせるよう工夫しました。サイズは、直径18mm、長さ230mm、重量200gです。糸川氏はタイニー・ランス(小さな槍)と呼んでいましたが、その形からペンシルロケットと言われるようになりました。
 荻窪工場は,以降本部としてロケットのエンジン・機体の設計と推進薬開発などの役割を果たしていきます。
(AVSA研究班の組織と活動の変化)
1952年サンフランシスコ講和条約発効後、連合軍の占領が終わり、研究の自由が回復され、東大工学部では航空学科を再開し、総合研究重視という東大生産技術研究所の方針に沿うものとして1954年2月にAVSA研究班が組織されました。メンバーは糸川氏他3名の航空系と,星合正治氏等3名の電気系の各教授です。
1954年2月、「航空電子工学と超音速航空工学」を主目的とする研究グループを作り、同年4月16日の会合で、ロケット輸送機を目標とする研究開発計画を作りました。その計画は、太平洋を20分で横断する輸送手段を夢見たものでした。
が、1955年度に入って,国際地球観測年への参加が決まり、文部省の予算も計上され、AVSA研究班のf目標は観測ロケット開発に置くことになります。
研究の具体化、規模の拡大によりより、機械,土木,建築、応用化学の各教授、航空、船舶,電気の各助教授らが新たに加わり,名称も観測ロケット研究班(SR研究班)と改められました。
(IGYとロケット)
世界各国の科学者が共同観測して、地球の全体像を明らかにしようという試みであります。
第3回目のIGY は1957-58年の期間で、この期間中は太陽活動の最盛期に近いので、超高層域の磁気嵐などの異常気象の発生が見込まれました。1954年4月に、ローマで準備会議が開かれ、米国・イギリス・ソ連のリーダーシップのもとで、1つは南極大陸の観測、もう1つは観測ロケットによる大気層上層の観測が組まれることになりました。日本からも出席し、日本学術会議はIGY特別委員会を設け計画立案し、政府のバックアップを勧告しました。当時IGYの日本政府側の窓口であった文部省岡野澄学術課長は、1955年正月の毎日新聞の「科学は作る」副題“ロケット旅客機”に書いてある東大生研の研究開発の記事を見て、東大生研の星合所長にIGYに間に合うようにロケット研究を進める可否を打診しました。
東大生研は観測ロケットの研究開発・打ち上げを約束し、文部省は1955年度予算として17,425千円計上。同年9月にブリュッセルで開かれたIGY特別委員会で日本は地球観測地点9カ所のうち、1つを担当する事となりました。
こうして東大生研AVSA研究班はIGYの日本参加を支えるという具体的で期限付きの任務を負うことになったのです。
(IGY=International Geophysical Year) 
(4つのペンシルロケット発祥の地)
…荻窪・国分寺・千葉・道川…
  1955年4月12日、国分寺にある新中央工業(株)跡地の銃を試射するピット(10m)を使って、関係官庁、報道関係者立会のもと、ペンシルロケットの水平発射の公開試射が行われました。
計測は電気標的と高速度カメラで行い、飛翔実験のための基本データを得、そして実験班の組織作りや実験方法・手順などの雛形を修得したのです。
次いで、1955年5月に千葉の東大生研の船舶水槽跡地を改造して50mの実験施設を作り、6月には、ロケットを上空発射時に追跡できるように発煙材を詰めた、長さ30cmの「ペンシル300」を水平発射テストし、2段式ペンシルロケットも、機体が完成し、水平試射し上空発射に備えました。
糸川氏は、ロケットは垂直にあげるものという固定観念を打破し、限られた時間、材料、予算の中で、ロケットの基本性能を得るために、ロケットを水平発射したのは逆転の発想と言えるでしょう。
1955年8月には、上空に向かってのロケットの飛翔実験を秋田市の南にある道川海岸で行いました。ペンシル300の斜め発射実験です。1発目は失敗したが、ランチャーを改造し,8月8日まで5基のペンシル300を立て続けに発射し・成功し、日本ロケットの幕開けであるペンシルロケット時代は終わりを告げました。
(その後の軌跡)
ペンシルの後は,2段式ベビーロケットの開発、推進薬の開発、1958年9月にカッパロケットが高度60kmの大気観測に成功しました。IGY期間中にロケット打ち上げたのは米英ソ日4カ国だけでした。
1967年2月には、内之浦発射場から、ラムダ4Sロケットによって初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げ成功し、1996年にはM-V型固体ロケットを開発し、「ひので」「はやぶさ」等を打ち上げました。
 一方、実用衛星打ち上げの液体燃料ロケットは1969年アメリカからデルタロケットを導入し、開発を積み重ね、1994年には悲願の純国産技術ロケットのH-Ⅱ初号機が種子島打ち上げられ、現在、H-ⅡB(全備質量531トン)迄に成長しました。
(所感)
日本再生・新生が叫ばれていますが、目標を決めて、総合した取り組みをすることが急務となっています。ロケット開発の話は素晴らしい産業を育てた好個のお手本でもあり、世界に誇れる技術を持つ企業が揃っている日本の再生・新生にヒントを与えてくれているのでないかと思う次第です。

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