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平成25年4月例会の報告

日時  : 4月10日 水曜日
       18;30 ~ 21;00
テーマ :「鎮守の森の植生」
場所  : 港区立商工会館
担当  :石田 金次郎

鎮守の森の「鎮守」は、広辞苑によると「①兵士を駐在させて,その地を鎮め守ること」、「②その地を鎮め守る神、また、その社」と記されています。鎮守の森は、鎮守の社にある森のことです。鎮守の杜とも表現されたりします。

日本人は、山川草木、あらゆるものに神が宿ると考えてきました。その神は、本居宣長は古事記伝で、「神は優れ、徳があり、かしこきものですが、尊くよきものだけでなく、あしきもの、あやしきものもふくんでいる」と書いています。
このような神を信ずる信仰、意識は古代からあり、仏教伝来があっても、神仏習合し、寺と神社はお互いに補い合って共存してきたのはご存じの通りです。
つまり、日本人は古来より地震、津波、噴火、台風などの自然災害が頻発する災害列島に住み、自然の猛威を前に,あらゆる森羅万象に八百万の神の存在を感知して,身近に神々をまつってきたのです。

鎮守の森は、神が降りてくる聖なる場所であり、そこに屋舎を造り、神社としたのです。昔から、森は神のいるところ、降臨するところ、荒らせば罰があたるなど、信仰的な聖域とされ、みだりに人は立ち入らせない場所で、地域の人々がそこを信仰し尊敬して大切にしてきた場所なのです。このため人間活動の影響をあまり受けず、自然のまま維持されてきたとされています。

現在、鎮守の森が自然植生の見地から日本の持つ優れた資産として世界から注目を集めてきています。何故なら、鎮守の森はふるさとの木によるふるさとの森として、自然植生の面影を残しているのみならず、環境の保全、災害の防止や文化の基盤として機能してきたからです。
その鎮守の森も、時代の荒波を被って、今日にあります。
明治になって、神道を国家的存在と位置づけるべく、神社分離令(廃仏毀釈)(1869年、明治元年)、神社合祀令(1906年、明治39年)で仏教施設はもとより全国で約7万社の神社とその神々、そして鎮守の森が姿を消したといわれています。     
この神々の一元化による淘汰としての神社合祀令に対して、抗議の声をあげたのが熊野の森を愛した野人・南方熊楠であったことはよく知られています。特に神社合祀令に反対運動を起こしたのは、それによって多くの神社の鎮守の森が失われることを危惧したからです。
また、戦後には経済の発展にともない,土地が開発され、あちこちで都市化が進み、多くの森や雑木林は伐採されました。が,小さな鎮守の森として生き残ってきたものもあります。

今回は、生き残っている杉並の鎮守の森の例から、現在の植生の姿をとらえ、将来への展望についてまとめてみました。
調査の対象にした神社は,境内の広さは2800坪で、その社殿によると寛平年間(880~897)頃に創祀されたという神社です。先ずは、第一にその鎮守の森の樹木を調べて、森全体の植生を把握し、今後につながるデーターベースとして樹木基本台帳を整備してみること、第二に,昔の文献や関係者の証言から過去と現在からどんな植生の変遷が読み取れるのか調べてみること,及び日本の自然植生図から今後どのような変遷になるのか、50年後或いは100年後の姿を展望してみること、第三に、鎮守の森の持つ意味を幾つかあげてその価値を再認識してみること、環境問題が喧しく言われる中で鎮守の森の現代的意義を考えてみることです。

第一の課題の某神社の鎮守の森の樹木調査結果ですが、幹周り40cm以上の樹木について調べた結果、36種、253本の樹木があり、樹種別構成を見ると針葉樹(51本、20%)、常緑広葉樹(82本、32%)、落葉広葉樹(120本、48%)という構成でした。樹木の平均幹回りは119㎝、平均高さは16m。最大に樹種は、落葉広葉樹でした。そして、最も多い樹木は、ケヤキの68本でした。ケヤキは、その枯葉が堆肥によいといわれ、江戸・東京近郊の農村地帯であった杉並の多くの農家がこの木を植えていたといわれています。杉並の区名になっているスギは1本でした。
第二の昔の文献や関係者の証言ですが、昭和15年9月に梅田芳明氏の著した「武州多摩郡上荻窪村風景変遷史」のなかの某神社の樹相の記述によれば、「字関根の南西傾斜地の上に鬱蒼たるスギの大木の森は、某神社であった」とあり、某神社の鎮守の森は、スギの大木の森であったことが文献から特定できたこと、

また、某神社の宮司の証言によれば、昭和30年頃スギの森が枯れ始めたことや藪になっていたところの竹林に白い花が咲き、一斉に枯れ始めたこと、クスノキの植樹をした以外自然に任せていたとの証言がありました。
天正19年、明治28年、昭和11年に社殿や本殿の修築・改築をしてきており、昭和42年(1967)には明治維新百年記念事業で、社殿の移転・増築・神門・回廊等を新築したりして、鎮守の森への人手の介入があったこと等が明らかになった。
一方、日本の自然植生論によれば、関東地方のこの地は常緑広葉樹林帯であるといわれており、「新修杉並区史」の杉並区の生物的環境のくだりで、「杉並区の過去の自然植生」について述べている。
「杉並区は鬱蒼とした森林で覆われていた。森林の植生を決める要因は、気候条件、土壌条件、そして人間の活動であると。そして杉並区の気候条件は、温度と降水量から暖温帯に属し、土壌条件は地層の表層が関東ローム層という火山灰土である武蔵野台地です。植生としては、ススキの群落から出発して落葉広葉樹林となり、気候条件に変化がなければ、鬱蒼たる常緑広葉樹林となり森林は安定期に入る。」と述べている。

これらの情報をまとめると、某神社の鎮守の森は過去社殿の修改築・新築などの人手の介入で、都度新たな遷移を繰り返し、ケヤキなどの古木がある一方、若い樹相もあり、それらが混じった途中の段階にあり、これから常緑広葉樹の森に向かって遷移していくものと推定される。50年後、100年後に今回と同様な調査の結果が証明していくのでないかと思う。

尚、大正9年にご鎮座した明治神宮の森については、1980年に明治神宮境内総合調査報告書が出ており、それによれば、幹周り30cm以上の樹木の樹相について、針葉樹については、大正13年に13.7千本あったが、昭和46年には5千本と大幅減少しており、常緑広葉樹は6.4千本であったが、昭和46年には12.6千本と大幅に増加している。落葉広葉樹は大正13年と昭和46年は6.4千本と変わらない。これらから、この地が常緑広葉樹林帯であるという一つの参考データといえるのでないかと思う。

第三は、都市の鎮守の森の機能についてです。
先ずは、二酸化炭素の吸収機能です。地球温暖化の原因になっている二酸化炭素の吸収機能です。この鎮守の森の樹木の体積から、これまで吸収した二酸化炭素量が略446トンと算出されました。僅かと言えば僅かです。

自動車工業界によれば、平成11年度の国産乗用車の平均燃費は19.9km/Lの性能で、二酸化炭素の排出量は116g/kmだそうです。某神社の鎮守の森の吸収量はその389万キロメートル走行の排出量に相当します。年間1万キロメートル走行の自動車389台分です。
1990年のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の評価報告書で、地球上の炭素循環についてまとめたものによれば、二酸化炭素は化石燃料等人間活動によるものからの排出で、一方、二酸化炭素の吸収は、森林と海洋だけで、毎年32億トン大気中に増加しており、地球温暖化で気候変動を招いているといわれています。
少量といえ、二酸化炭素の吸収は貴重なものなのです。鎮守の森の大きな機能といえるのでないかと思います。また、光合成は、酸素を排出してくれるという機能もあるのです。
次いで、遮音機能です。樹木による反射による音の減衰です。静かな空間を演出し、精神の安定、癒してくれます。
第3には、常緑広葉樹の防災機能です。昭和51年の酒田の大火の時に、タブノキが延焼を防いだのはよくご存じだと思いますし、阪神大震災の時も、カシ類が防火機能を発揮したというのも、新聞で報道されました。あの明治神宮も、戦災に会い、1330発の焼夷弾が落ちましたが、社殿等は全焼しましたが、森はあまり影響を受けなかったと報告されています。
それと、森は高木・亜高木・低木夜下草などの体系からなっています。一連の関係があるので、単独では成り立ちません。自然豊かな森は、動植物の種の豊かな森なのです。人の立ち入らない神域のある鎮守の森は、公園などと違って、そういった生物多様性を保持しているのです。

これまで述べてきましたが、鎮守の森は、生活・文化などの面で、自然と共生するという日本人の精神的基盤でなかったと思う次第です。その地にあった、自然植生をしっかりと押さえて、ふるさとの森が少し理解できたような気がします。

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