« 平成28年4月例会報告 | メイン | 平成28年6月例会報告 »

平成28年5月例会報告

日時  : 5月12日 木曜日 18;30 ~ 20;30
テーマ :城野先生の遺稿の整理について
場所  : 港区新商工会館
担当  :榊原高明、古川彰久

城野夫人は以前から城野先生の遺稿の整理を希望されてましたが、今年一月に小生と榊原氏がお宅を訪れ、城野夫人のご希望に沿うべく、段ボール8箱の遺稿等をお預かりしました。
その後、二人で内容物を整理したところ、以下のような状況であります。

保管資料の分類
1.既に出版された書籍の原稿
2.雑誌として出版された
 「ケーススタディー」シリーズ
 「情勢判断の方法」シリーズ
 「基礎学習」シリーズ
「城野宏論文集」 等の雑誌と原稿
3.城野先生が会長をされた「産業新潮社」
 あるいは理事長をされた「日本教育文化協会」・
 「日本アラブ協会」等が発行する雑誌等に起稿された社説・社論等の原稿
4.「古事記」上巻は製本済、
 中巻、下巻は原稿
5.未出版と思われる書籍原稿
 「脳力開発と農業」
 「中国学」
 「山西のこと」
 「山西残留記」
 「講談中国史」
 小説「赤い大地」(未完)
 その他、中国関連資料、帰郷後初期等の原稿、
 著名不明の原稿があります。
6.中国で出版されたのかどうか不明ですが、
 中国語に翻訳された原稿
 「農業観念の根本転換」
 「日本経済の構造」

この中で、まず気になったのは4項の「古事記」であります。
 本原稿資料は、真福寺写本の中国語を翻訳したもので、上、中(原稿用紙83枚)、下巻(56枚)からなり、上巻のみが製本済です。面白いのは 上巻の序で、古事記の序文は漢文で書かれているのに、本文は簡単な中国語で記されていて、内容に相違があり、つながらないなど、我々が学んできた古事記の認識とは違いがあるようです。
  
 城野さんによれば、古事記は本居宣長が日本の古語を研究し、古事記の中国式漢字配列のそばに自分の知っている古語を当てはめたのが「古事記伝」である。全部が日本の古代語らしいものに置き換えられてあり、普通の人には分からない。古事記の研究というと、原本のやさしい中国語ではなく、難しい古代語訳古事記が、まるで本来の古事記の原本だと誤解されてしまったようだ。

 城野さんは古事記は難解で近寄り難いという先入観を突き崩し、古代日本人の生活内容を研究して、これまでの偽りの歴史から抜け出す助けにしようとされたのだと思います。この為に勉強会を立ち上げ、このテキストとして、中巻、下巻と発刊したかったと思いますが、残念ながら先生が亡くなられたため、刊行は上巻のみとなりました。

 6月の例会では、城野先生の翻訳資料と現代までの古事記翻訳の歴史的変遷や内容の違いなども 踏まえて説明し、これについて皆様から城野先生の古事記原稿資料の今後の扱いについてご意見を頂戴出来ればと思います。

 城野先生が「古事記」との関連で書かれたと思われる、「中国語と日本語――日本人がつくった“漢詩”――」という原稿がありますので、以下に紹介します。

<要旨>
中国語は、日本人にとって外国語のはずである。ところが漢字を使うという共通性がある。古来から日本人は漢字を通じて文化を吸収してきた歴史があるせいか、いつの間にか漢字が使われている限り、中国語であっても、日本語の漢字の意味で受け取ってよいものと思い込んでいる傾向があるようだ。

 日本人で「漢詩」を作る人がいる。中国古来からの詩の形態をとっているのだから中国の詩の筈である。しかし日本人として漢詩がつくれるということは、高い教養人としての証明であるかのような習慣的印象があるようだ。そこで漱石をはじめ名のある日本の文学者や、漢学者がよく「漢詩」を作っている。

 ある著名な漢学者の詩ですがといって見せられたものに、次のようなものがあった。
自誤文明妖気昏 紛紛軽薄豈堪論
一誠須立大成志 百忍應開衆妙門
世上流行何足迂 人間節義最為尊
相逢今日当相楽 清舞朗吟濯性源

 これを日本語にして読めば、
  自ら文明を誤って妖気昏し
  紛紛たる軽薄豈論ずるに堪えんや
  一誠須く立つ大成の志
  百忍まさに開くべし衆妙の門
  世上の流行なんぞ追うに足りんや
  人間の節義最も尊と為す
  相逢こと今日 まさに相楽しむべし
  清舞朗吟性源を濯う
 となるようである。

日本語の漢字の意味で解すれば、
  文明も自分でダメにして、よろしくない気分が
はびこり世の中も暗くなっている。
その辺のつまらない軽薄な者共は問題にならぬ、
一つの誠の心で大きな目的を成し遂げる志を
立てねばならぬ、つらいことも辛抱して、多くの
人々の立派な門を開かねばならぬ、世の中の流行
を追うようなことはしない方がよい、人間は節義
がもっとも尊い、そういう仲間が今日は顔を合わ
せたのだから、大いに心楽しく過ごそうではない
か、歌ったり踊ったりして人間性の根本を洗って
しまおう
 ということになりそうである。

 つまり、世の中はつまらぬ奴がうようよして、つまらぬことをやっているが、節義ある我々の仲間は清くいき、意気軒高としていつも精神の根本を洗ってすっきりしてゆくといった清純高尚の気を鼓吹したものと受け取れる。

 ところが、この漢詩を中国語として受け取るると、すっかり意味が違ってしまう。

 文明という言葉は中国語にはないから、自誤文明
とは中国人にはわからない。妖気とは女性がセックスアピールを発祥したり、狐狸が女に化けて男をたぶらかす時に使う。昏とは頭がくらくらすることで、日本語のようにくらいということになるのは黄昏というように結合せ方が違わねばならぬ。だから妖気昏では、セクシイな女に迫られて目がくらくらするという意味になってしまう。中国語の軽薄は尻軽女に使う。日本語の軽薄な人間というのとまったく違うのである。?軽薄といえば、あの女どうも男狂いでねとなる。妙門とつけては女性の陰門にしかならぬ。世上流行も中国語では意味が通らぬ。最近は日本語の流行がそのまま会話では、ファッション流行の意味で使われることはあるが、外来語であり、詩語にはならぬ。人間は世の中という意味で、日本語の人間の意味はない。濯性源となると、性源という熟語は中国語にはないから、一字一字の感じから推測することになる。ところがその前に相楽という言葉がある。これは男女のセックスの時に使われるから、これに連なって受け取ると、どうしても、セックスが終わってから陰部を洗滌しているとしか取れない。だから全体を通していえば、ひどくセクシーな女がいて目がくらくらしてくる、あの女、尻が軽く、どんな男も相手にするが、そんなこと問題にするな、やるからにはちゃんと決心を決め、あせらずに女の陰門を開かねばならぬ、今日また会ったからセックスをやって楽しもうではないか、踊ったり歌ったり大いにやって洗滌をした、というとんでもないポルノになってしまう。

 作者当人は中国語に通じていないため、日本語の漢字の意味で作ったのであろうが、上記のようにまったく想像外の結果になっている。

 中国語は外国語であって、日本語ではない。いい加減に日本語で中国語を曲解してはならない。このようなことは日中の相互理解と相互の尊重に大害を為すことになろう。つまり中国も中国語も、中国文化も、日本の付属物でも従属物でもないのだから、長年の習慣でそうなっている心構えを検査し、改めてゆく必要があるようである。この心構えが抜けないと、中国のことで日本と違った点を発見すると、みんな軽蔑の材料にしてしまうことになる。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)