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令和5年3月例会報告

日時  : 3月9日  木曜日
      18:30 ~ 20:30
場所  : 港区立産業振興センター
       10階 会議室3
テーマ : 「東西古今人間学5」前編
      テープを聴く
演者  :  榊原 高明

1. 当たり前のことをやった毛沢東
 [この目で見てきた毛沢東]
  その昔、ジンギスカンとか漢の高祖とか中国を統一した人は沢山いたが、新疆省からチベットまで、全世界の四分の一以上の人を集めて統一国家をつくったのは、毛沢東が初めてである。これを実現した実際のやり方をみると学ぶところが沢山ある。たった三人で包丁一丁持ち、革命を始めたのです。書物の中で知った歴史上の人物ではなく、毛沢東とは、何十年も彼と戦争を通して、お付き合いしてきた。自分と戦ったため、毛さんは天下統一が四年ほどおくれた。戦いのやり取りを通じて、この目で見てきた、毛沢東の姿を探究して少し違った面を引き出すことができるだろう。

 [毛沢東の生い立ち]
  湖南省の生まれ。長沙の師範学校で学び、師範学校の教師となる。               
当時の中国の状況;1911年、清朝が倒れ、中華民国が成立した辛亥革命が起きた。孫文が臨時大統領に迎えられたが、新政府を成立する段になって、辛亥革命に協力した北方の軍閥連中の勢力が強かったため、袁世凱の政府ができてしまった。これに対抗するために、孫文は広東に中華民国臨時政府を作り、軍閥政府打倒のため軍隊の養成を始めた。それが国民党の軍隊となる。
1921年、上海で共産党結成のための会議が開催された。当時ソ連はコミンテルンという世界共産主義の連合組織をつくり、革命の指導に当たっていた。ここから来たボチンスキイの強力な指導の下に中国共産党が成立した。毛沢東は  同士ら十数人と共にこの会議に出席していた。

[ことを起こす前に準備する]
  この孫文のやり方は、人間学として考える上で非常にためになる。ことを起こすとき何から始めることが大切なのかを教えてくれる。まず士官学校を作り将校を養成した。彼らが後で国民党や共産党の将軍や幹部になって活躍した。
[第一次国共合作]
  1924年、国民党単独で北の軍閥を倒すには力が足りないので、当時力を持ち出した共産党も、仲間に加えようとなった。

[農村調査から得たもの]
  毛沢東は広東の農民研究所の所長になった。彼のここでの中国農村調査が、彼のその後のやり方を決める上で、大きな影響を与えた。通常の調査のやり方ではなく、その土地の住民を集めて一緒に座り込み、いろいろ話を聞く。その話をまとめて、中国の農村の実態を掴んだ。 
 その結果、中国の地主が大きな力を持っていることが分かった。人口の10%ほどの地主が40%もの土地を持ち、貧農は農民人口の60%を占めているのに、彼らの土地は6%に満たない。小作料が高く、7~8割を取られる。小作人は食べて行けず、餓死者もでた。軍閥政府は地主の子弟が幹部になり、地主勢力を基盤に農村を支配していた。毛沢東は「貧農はものすごく恨んでいる。この政府を倒すには地主の支配する地方をやっつければよい。地主を恨んでいる村の人口の大部分を占める貧農に鉄砲を持たせさえすれば地主は倒れるはずだ」。そう判断して毛沢東は、それを見て革命のとき実行に移した。

[北伐の開始]
 1926年、国民革命軍は北伐を開始し、共産党は全力を挙げてこれを支援した。
 1927年、蔣介石はついに上海を手中にした。

[国共の対立]
 上海をとると、状況が変わった。上海は外国勢力が租界を作り大きな地盤を持っていた。外国勢力は自分たちの利益をまもるために蔣介石と手を繋ぎ、全国統一を支援する代わりに、共産党を追放するということになり蔣介石はクーデターを起こし揚子江岸で共産党殲滅を行い、43万人とも言われる共産党員を虐殺した。これにより、全国統一を達成し、中華民国を成立させた。

[秋収蜂起、井岡山へ]
毛沢東ら共産党の人達は手下の軍隊を率いて秋収蜂起と言われる暴動を起こした。毛沢東は農民率いて井岡山に入り、後に朱徳らが合流し、この軍隊が後に人民解放軍の基礎となった。
当時の共産党中央は、マルクスレーニン主義一辺倒で、毛沢東は農民主義であるということで軽視されていた。口だけ達者な連中が、毛沢東を下の地位において、威張っていた。
力をつけてきた中国共産党は、1931年、中華ソビエト共和国臨時政府を作り、人口1億3千万人位の地域を支配し、各県にソビエト地区を作り、兵力も30万人位になった。

[2万5千里の長征]
 これを見て蔣介石は、大変だとばかりに討伐部隊を派遣も毎回敗退。そこでドイツの将軍を頼み、百万位の大軍をつなげ井岡山を囲み、包囲網をじりじり縮めた。共産党は耐え切れず脱出。これが長征の始まりである。この長征は非常に困難で30万で出発した紅軍が延安に到着できたのは2万であった。後にこの2万人が日本軍との戦争の中で肥え太った。1949年、共産党は北京に入り、中華人民共和国をつくった。

[理論に基づき行勒]
 毛沢東が従来の指導者と違うところは、必ず理論を持ち出すところである。マルクス主義の指導者は、レーニンはじめみな理論を持ち出す。毛沢東も矛盾論などの哲学書や、持久戦論などの論文をたくさん書いている。
理論を持ち出して、皆に知らせ、これに基づいて仕事をしていくというやり方は、ナポレオンや秀吉、信長にない。彼の大きな特徴である。
毛沢東が理論を必要とした理由は、社会体制を変えねばならなかったからである。「プロレタリアートよ団結せよ」という新しい理論を実践に移すためにそれを本にした。人間関係を円滑にする場合や人をまとめる時、新しい問題に注意を向けさせるとき、本を書いて呼びかけることは有効な手段になる。これは戦術問題だから、どちらがいいとか悪いとか簡単には言えないが、本を書くことはかなり威力のあることである。

[悩み、欲求を引き出す]
 本を書いただけでは大多数の人はそれだけでは動かない。どうすればいいか、その人達が持っている一番の悩み、欲求を引き出してやらないと人は集まらない。井岡山で、どんなに包囲されても、1万から2万の人間を食べさせることは大変なこと。ここのところが、解決できなければ革命などはできない。

[食]を確保
人間は穀物とタンパク質なしで生きてゆけない。このたべるという根本なところ、毛沢東は実に上手く解決した。農村調査したことで、多く学んでいた。地主のところには、貧農につくらせた穀物が沢山貯蔵されている。そこに目を向け、軍隊を連れて村へ行き、地主の家に乗り込み、蔵の中から米や、銀貨を持ち出す。その後で貧農連中を集め、穀物を分けてやる。飢えた連中はみな喜び、共産党万歳となってしまう。そこで決して「共産党とは・・・」などと演説しない。言ったところで、それで人間は動きはしないことをよく知っているからだ。飯をもらい、金がもらえればそちらへ行こうかとなるのは当然。こうして同じようなことを近所の村々でやった。どこの村の貧農も、飯を分け与えてくれる共産党を待ち望むようになる。

[効果少ない理論]
 毛沢東の所に行けば飯が食える。これが一番肝心なことだ。中国の社会では、多くの人が食べられないから、飯が食えるというのは、一番大切なこと。この辺のところを毛沢東はよくわかっていたので、井岡山に立て籠っていても、人が集まり、兵隊に事欠かなかった。のちにそれが、とうとう三十万人の軍隊にまでなったのである。
一つには、ものを分けてやる。一つには、そこへ行けば食えるということで人が集まったのであって、共産主義やマルクス主義で人が集まったのではない。この辺のやり方が、毛沢東の曲者のところである。理屈がそれほど威力があるとは、私にも思えない。彼もそのことを知っていたのである。
共産主義については、人の好みであり、好きな人はこれをやればよい。ただ、日本では、貧乏になるから、ああいうやり方はやらない、それだけである。
当時毛沢東は、イギリスに追い付け追い越せと、イギリスを目標にしていたが、三十年経っても、さほど進歩していない。貧乏好きなら、どうぞ共産主義で行きなさい、それだけのこと。

ご参加の方からのご意見;
 我が国では飯が食えないということはない。だから、国民があまり強く政府に対してものを言わないのではないか。これに対し、政権側は1000兆円を越える国家の財政赤字でこれを維持しているのではないか、とのご意見が出されました。

                    以上

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