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平成23年5月例会 報告

日時  : 5月11日  水曜日
      18:30 ~ 20:30
場所  : 港区立商工会館
テーマ : 「「原発の安全神話」を検証しよう」

担当  : 古川 元晴

1 はじめに
 原発の「安全神話」は、3月11日発生の東日本大震災により無惨に崩壊しましたが、国民の圧倒的多数が原発の「夢のエネルギー源」という光の部分の恩恵にどっぷり浸かり、「死の放射能」という陰の部分から目を逸らしていたことも明らかになりました。「神の国」神話による先の大戦の惨禍と対比して、この度の惨状を「第二の敗戦」と言う人さえいます。現実から目をそらした神話が自滅への道であることは自明の理であって、その神話に浸ることは自らを被害者にすると同時に加害者にもするのだという自覚の下に、国民一人一人がこの「安全神話」を克服する行動を起こす必要があると考え、私も法律家という立場から今回のテーマに取り組んだ次第です。なお、原発に関しては、「安全」神話のみならず、「安い」神話、「原発不可欠」神話も作られて相互に補完し合っているようでして、いずれ別の機会に検証したいと思っています。

2 確認的事項・・「 安全」とはなにか

(1)経営戦略上安全をどのように位置付けるかについては、
A 安全>成果 (安全が成果に優先)
B 安全<成果 (成果が安全に優先)
C 安全=成果 (安全と成果は車の両輪で同等)
の三つの考え方があり得ますが、Aが正しい戦略です。Bは社会的に許されない説であることは明らかでしょうし、Cも一見正しそうで実際にもこの説が多数ではないかと思われますが、安全と成果が両立できている場合はよいとしても、対立した場合にいずれを選択するのかの戦略判断ができない等の問題があり、不適切です。

(2)工学上、安全について
 A 本質安全(システム自体に安全が組み込まれている)
 B 制御安全(人がシステムを操作、制御して安全なものにする)
の二つの概念があって、設計者はAを目指すべきものとされています。

(3)法律上、安全について
A 絶対的安全(絶対に危険は許さない)
B 相対的安全 (社会的に許された危険を認める)
の二つの概念があって、医師の医療行為のように「社会的に許された危険」の存在を容認した上で安全を論ずべき場合がB、そうでない場合がAということになります。この「社会的に許された危険」というのは、主として科学技術の社会的有用性に着目して導入された法理論です。

3 原発安全の「真話(実態)」は何であったか

(1)原発は当初から国策として政治主導で導入されたため、安全性に関する本格的な議論はないまま推進され、その危険性が本格的に議論されるようになったのは1979年のスリーマイル島事故以来で、現在、原発の安全性については、原子力安全委員会が「安全設計審査指針」と「耐震設計審査指針」を定めて審査していますが、地震国日本において後者の「耐震設計審査指針」は極めて重要な指針であるところ、この指針が初めて制定されたのは1978年9月で、それも1995年1月の阪神大震災で総崩れとなり、2006年9月に現在の「改訂新指針」が決定されたということです。原発導入以来、設計上、管理上、操作上等のミスや、地震の影響等により幾多もの事故が発生しましたが、国策としての原発には「とめる」という選択肢が許されず、現実の危険と正面から向き合うことなく、その都度、後追い的に、やむを得ない限度での安全策を講じるだけで推移したといえます。

(2)工学上、原発の安全は、本質安全とはほど遠く、この度の惨状で明らかとなったように危険を制御する技術が極めて不完全であって、制御安全さえ保障されていない異常に巨大な危険を孕んだものであるということを先ず認識する必要があります。その上、日本の場合には全土が地震帯という立地上の危険が付加されており、しかも地震学というものが基本的には未知の分野を対象としていて科学的に解明できることはごく僅かであるという大きな限界を負っているということです。これほど危険なもので民生用に導入が認められているものは他に類例がありません。

(3)このように危険な原発の導入を法理論として支えたのが、前述の「社会的に許された危険」の法理です。しかし、これほど危険なものが「社会的に許された危険」の法理で導入が許されてよかったのでしょうか? 例えば、医療用 に使用するX線機器が、電源が切れたらX線が出続けて止まらなくなるとか、自動車や列車が、一旦ガソリンや電源が切れたら暴走状態が止まらなくなるというような事態は許されるでしょうか。このような危険な民生用機器は社会的に絶対に許されていません。最近、トヨタ自動車のアクセル不具合による暴走問題が米国で重大な問題となったことは周知のことですが、そのような暴走は如何なる理由があろうと許されないということが前提となっているわけで、ここでも「絶対安全」の法理が当然のこととして適用されているのです。原発の事故にも程度の軽重があり、人の生命、健康への被害が軽微に止まるような態様の事故の危険については、「社会的に許された危険」の法理が適用されることにはそれほどの違和感はないでしょうが、今次のようなレベル7に達するような事故が発生する危険についてまで「社会的に許された危険」の法理が適用されてしまっているという点に、原発安全の正体を解く鍵があるといえます。極く小さな危険であれば許されるということが、目に見えない巨大な危険を目にみえる小さな程度のものとみなして許容していまう結果をもたらしたのです。

(4)この「社会的に許された危険」の危険については、具体的な予見可能性が必要であるというのが現在の定説ですが、そこで特に重要な役割を果たしたのが地震に関する「科学」であり、専門家でした。地震や津波の大きさの想定については、未知、未経験の分野が極めて大きく、主として過去に起きた事実を科学的に調査して推測する以外にないということで、この過去に起きたことについても記録や痕跡が乏しく、認定は困難な場合が多いということで、科学的に明確に危険が認定できるのはどこまでかということで検討すると、危険の程度が非常に小さなものになってしまい、科学的に想定できる限度を超えた危険についは科学的に想定外ということで科学的に切り捨てられる結果をもたらしました。

(5)現実は、その科学の想定外において発生しました。福島第1原発については、想定津波の高さは5.7mということで、これは東電が「社団法人土木学会」に調査依頼して出された数値ということですが、896年の貞観の津波を研究していた専門家が経済産業省の審議会で東電の報告に異議を述べたのに、東電側は「情報収集中」として異議を棚上げにしたと報じられています。そして、現実には14~5mの高さの津波に襲われて、異議の正しさが認識されました。また、政府機関の中で、主として地震を審議するのは文科省の地震調査研究推進本部の地震調査委員会ですが、そこで三陸沖から房総沖にかけて8つの震源域に分けて検討されており、連動するのは「宮城県沖」とその沖の「三陸沖南部海溝寄り」だけで、それ以外は別個に動くと予測し、連動してもM8前後と予測して、予測外については科学的に想定外のこととして切り捨てられていましたが、現実は6つの震源域が連動し、M9の想定外の地震となりました。

4 安全神話作りの主犯と共犯

(1)安全神話は、その真話(実態)が「相対的安全」であり、異常に巨大な危険を孕んだものであるのに、国策として、そのような危険が存在しない「絶対的安全」であるかのように国民に説明され、国民もそれを信じたことによって生まれ、維持されました。国民に「真話」を話したら拒絶されることを恐れ、「神話」を語り続けざるを得なかったのです。この神話によって利益を得るのは推進主体である国・行政機関と電力会社で、国も電力会社も莫大な費用を使って国民向けに原発安全の普及活動を推進しました。この両者を安全神話作りの主犯格とすれば、これを前述のとおり科学の名において正当化した専門家は共犯ということでしょうが、原発安全神話を支える結果となった法理論も、同様に共犯の責めを負うのではないかと思われます。科学的に想定外の事態に社会としてどのように対処する必要があるかについての法律論が未確立のまま放置されていることが、この人災の陰の要因となっているように思えてなりません。

(2)この点で、藤木英雄東大教授が、戦後の高度経済成長期に多発した公害、薬害等の社会事象を直視して、刑法上の過失理論として「新過失論」を展開したことが瞠目されます。これは、科学技術を「社会的に許された危険」法理で民生用に導入することを容認しつつ、その結果発生するおそれのある生命、健康への危害を未然に適切に防止する法理として、「具体的予見可能性」に代えて「危惧感説」を唱えたのです。科学技術が未知、未経験の分野に挑戦する場合には、具体的に如何なる危険があるかを想定できない場合が多く、「具体的危険性」の認識を必要とする従来の過失論では適切に対処できないとして、漠然としてでも抱くべき「不安感」「危惧感」に過失の根拠を求めて、その不安感、危惧感に応じた作為義務を課そうとしたものです。藤木教授のこの説は、科学技術の弊害として今次のような惨状を予測し、その未然防止の理論を構築しようとしたものとして、改めて高く評価されるべきであると思いますが、同教授は残念ながら若くして逝去され、この理論は森永ヒ素ミルク事件判決で採用されただけで、実務にも学会にも根付くことなく終わっています。刑法理論を単純に厳罰化の方向で改めれば良いというわけではありませんが、現状の刑法理論(過失論)が、原発をはじめとする高度に進歩した科学技術の水準に対応し切れていないということでは、社会規範の空白を生み、原発のように人の生命、健康に重大な危険を及ぼしかねない事業を推進する人々の責任感を弛緩させる弊害をもたらすといわざるを得ません。

(3)また、裁判所は「原発安全」をどこまで裁けたかを過去の裁判例で見ると、民事訴訟として原発運転差止請求が多数起こされていて、既に10件の判決が出ていますが、差し止めを認めて原告勝訴となった判決は、志賀原発に関する金沢地裁判決の1件だけで、これも控訴審で破れて原告敗訴となっています。この一審と控訴審とを比べると、いずれも原発の危険性について相対的安全説に立っていることは共通ですが、一審は、司法による厳しい行政チェックの姿勢を堅持して、具体的危険の立証責任を原告から被告(電力会社)側に転嫁する割合を他の裁判より大きくすることにより原告勝訴の判断を導き出したもので、藤木教授の新過失論に通じる判断のように解されます。しかし、これも、新過失論同様に裁判所内ではごく少数にとどまっています。国策として推進される場合、国民がこれを阻止する方法としては、選挙によるか裁判によるかしかありませんし、選挙による場合は多数者の意見は反映できますが少数者の意見は裁判による以外に反映させる方法はありません。その裁判においても、安全神話を裁けた裁判は1件しかなかったのです。

(4)要するに、安全神話の推進者達は、刑事責任については従来の過失論で免責されてしまい、民事責任についても、未然防止の観点からの差し止め請求事件は裁判所で放免され、現実に発生したこの度の巨大な災害についても、原子力損害賠償法により電力会社の無過失責任が認められ、国の補助的責任も認められていますが、電力会社の負担は、独占体の強みで結局電力料金に転嫁されて利用者たる国民の負担となり、国の負担も結局は国民の負担となるわけですから、国や電力会社の担当者は法的にも経済的にも全く責任を免除されているに等しい状況にあったと言えます。このような無責任体制を容認する法的、社会的システムが作られていることが、原発神話の基盤を支えていたといえるのではないでしょうか。

5 今なお続く安全神話
福島第一原発の危機的状況は今なお続き、技術立国日本の威信をかけた懸命な復旧作業が続いていますが、この度の惨状を招いた関係機関の責任者は、引き続きその復旧作業を以前と同様の感覚で担っているようで、加害者に自らを裁かせているような違和感はぬぐえません。また、国民生活を経済成長より優先させるとして誕生した民主党政権でさえも、夏の電力不足を懸念して、浜岡原発を止めただけで早々とその他の原発の「安全宣言」を出しています。成果(経済成長)を安全に優先させる考えが、今や公然と唱えられているのです。安全神話から脱却する道は、結局は国民一人一人が目覚める以外にありません

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