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平成28年11月例会報告

日時  : 11月10日 木曜日 18;30 ~ 20;30
テーマ : 城野先生遺稿
      古事記中国語原本と翻訳
      第5回

場所  : 港区新商工会館
参加費 : 1000円
担当  :郷津 光

「古事記」の可能性に関する検討
2016年11月10日 郷津 光
1. 古事記について
概要
古事記の冒頭にて、712年(和銅5年)に太安万侶が編纂し元明天皇に献上したと記載されている。古事記より前に存在していた書物(天皇記、国記など)が蘇我蝦夷の放火によって焼失・焼損した 後に編纂されている事や、日本書紀との共通性等の根拠から、消失・焼損した書物や口伝等を基に作成されたのではないかと考えられている。
原本は現存しないが写本として伝わる。最も古いものは真福寺の僧によって写された「古事記・国宝真福寺本」である。国学者・本居宣長の研究・翻訳対象となる事によって、江戸時代以降「国学」形成の出発点ともなった。更に明治時代以降は第二次大戦の終戦に至るまで天皇を絶対化・神格化する役割を果たした。
戦後も多くの研究者によって調査・研究が進められているが、多くは本居宣長の翻訳を基礎あるいは前提としている点に特徴がある。
内容
単に日本で最も古い歴史書とされているから貴重なのであり、その内容については「日本国の優越を証明する書物ではない」等として格別の価値を認めないという立場もあり得る。また、科学・情報技術の途方もない発展と、ボーダレス化・グローバル化が促進し混沌とする世界情勢にあって「民族優位性の証明」として古事記を利用しようとすれば、戦前と同様の罠に陥り内容の誇大解釈等の結果価値の大半を失うのではないか。
しかし、近年の急速な科学・技術の発展に伴う全世界規模でのボーダレス化・グローバル化に伴う民族・文化間の摩擦の顕在化・激化は同時に、文化の相互尊重の必要性、および日本人のルーツ探求に関する意欲を増大させている可能性がある。
その点、「古事記」の内容を「個人の神格化・民族優位性の証拠としての道具」ではなく、「ルーツをたどる資料」として捉えなおすのであれば、強い需要が生じる可能性がある。
現状「古事記」そのものに対する関心は、特に若者の間で著しく低く、フィクション等の題材あるいは昔話の一部として断片的に知る事はあっても、主に本居宣長注釈古事記そのものの理解の困難さもあって、広く内容が伝播しているとは言い難い。仮に需要を喚起しようとするのであれば、古事記そのものへの捉え方の国内における広範な転換が必要であると思われる。
2. 城野先生の古事記に対する捉え方
古事記に対する姿勢
城野先生は著書の中で「伝説、神話も民族の祖先たちの生活表現であり、文化的遺産にほかならない。その遺産は後代のものも先代の経験として自己行動の参考にしてよい」 とし、古事記の研究について、「古事記の中にふくまれる部分的事実の中から、日本の古代人たちがどのように行動したかを追求し、人間行動としての歴史の真実を見出そうとする試みである。そして日本民族が自己の歴史の真実を見つめ、常に正直で誠意ある民族として行動し、ますます深まっていく国際関係のつながりの中で、立派に生きていく力としたい」 と述べている。
上記の姿勢は、古事記の内容を神聖視するでもなく、あるいは単なる権力者の道具として排斥するのではなく、日本国の文化的遺産として研究の対象とする事で日本人が国際社会で活躍する人となれるよう古事記を活用しようとする試みであると言える。
古事記の特徴
城野先生が、本居宣長注釈古事記ではなく、古事記真福寺写本の内容を中国語として捉えなおし、独自に検討した結果「古事記伝説はセックスと政権争いによって成り立っている。それは著しい特徴である。」 と述べている。詳しくは『古事記と人間』城野宏,2006啓明書房を参照されたい。
内容の評価
古事記真福寺本の内容について、本居宣長注釈古事記や明治時代以降の解釈との違いを挙げつつ、「華やかで荘重な支配者による民衆圧迫、征服と奴隷化の野に咲く華麗なる英雄の歴史ではなく、ごく普通で、平凡ではあるが、普遍的な誰にでも理解され、愛され、同情できる人間性と人間の歴史である。古事記はこの意味においてこそ優れた歴史的記録であるということが出来る」 と評価している。
平易な中国語で書かれた真福寺本に直接当たり、慎重にその内容を吟味すれば、本居宣長注釈古事記の様なわかりにくく深淵で壮大な古事記像ではなく、ごく有り触れた人間の生々しい心理が描かれた古事記像が浮かび上がると指摘している。
3. 検討
①・②を条件として、城野先生の描く「古事記」像が、今後日本社会から広く求められる可能性があるのか、下記検討する。
【城野宏翻訳古事記の意義】
本居宣長注釈古事記が多くの古事記研究の前提とされる中にあって、そういった高尚さ・深遠さを否定する城野宏翻訳古事記は、日本国内で広く受け入れられる事はないとも思える。そして、古事記自体は前記「1.古事記につて 内容」で扱った様に、技術革新・世界情勢変化の中で突発的に需要が喚起される可能性がある。
仮に「古事記」を建国神話として絶対視すれば多くの齟齬が生じる事は、城野先生が著書で再三にわたり指摘している。文化の相互主義を離れて自己の生まれついての優位を主張する目的で利用すれば摩擦を強めるだけになりかねない。
その点、城野宏翻訳古事記は、古事記に対する潜在的需要に答えつつ、虚飾等の不都合を回避する為に効果的であると考えられる。また本居宣長注釈古事記が前提となっている古事記研究に対する有効なカウンターとなり得る。これらの点で貴重な存在であると言える。
【城野宏翻訳古事記が与える影響】
 皇室の問題は国民の関心事であり、その最中にあって城野宏翻訳古事記は「天皇陛下も人である」という当然の事実をより明確にするものであると言える。しかし、同時にこれだけの国民的関心事である事柄について、よりよく理解するきっかけともなるのではないか。多くの日本人が敬愛する今上天皇と皇室について、戦後70年を経て現在大きな岐路に立っているとも言える。別世界の話ではなく、この国を支える国民の一人として、当事者意識をもってこの国の行く末に思いを馳せる、そのきっかけとして城野宏古事記は格好の材料ではないだろうか。
4. 終わりに
今現在、世界に存在し生活する人々は、過去から続く生命の連鎖の結果とも言える。文化の発生段階から今に至るまで「人は何処からきて何処へいくのか」という種の起源、あるいは「世界は何故存在するのか」という宇宙の起源について、関心が尽きる事はない。その点、日本列島で過去作成された「古事記」という書物は、日本における独自の創世神話を紡ぎ、普遍的な問に答えようとした証拠であるともいえる。過去のない我々が存在しないように、過去を顧みない未来もまた存在し得ない。日本に住む個々人が自らの中に受け継がれる「人間性」を感じ未来を見つめなおすきっかけとして、「古事記」を検討しても良いのではないか。

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